吸血鬼

 相変わらず汚いところだ、と雄太は思った。この部屋では太陽の光さえ黄色く埃っぽくなる。あらゆるところに積まれた紙束が、雄太が動くたび埃を舞いあげていた。
「蓮」
できるだけ空気を口から吸い込まないように気をつけながら雄太は呼んだ…「蓮!」
 ばさり、と部屋の奥で音がした。狭い部屋は、積まれた紙束のせいで迷路のようになっていた。扉を背中で支えながら立つ雄太から向かって正面と右側の壁には、埃と本でぎっちり詰まった本棚が壁を隠していた。蜘蛛の巣さえあった…いくつもの紙束が塔となり、部屋はその影で薄暗くなっていた。
「いないのか、蓮」
「いるさ、雄太…ええと…少し…待って」
紙束の塔の影に何かが動いているのが見えた。雄太がそちらに踏み出すと、背中に支えられていた扉が嫌な音を立てて閉まった。紙を踏みつけるのもかまわず、雄太はやや大股で3歩歩いた。
「今…うん、でも」
塔の向うにいた日に焼けた青年は、ほとんど裸と言ってよかった。雄太はそんなことよりも、また彼の髪が伸びていることにぎょっとして黙りこんだ。
「少し…今それらしい記事を…」
蓮はぶつぶつ呟きながら古い新聞を読んでいた。もっさりと覆い茂った髪の間から端正な顔立ちがのぞいた…雄太が望んでも手に入れられないものを、蓮はすべて持っていた。
「なあ、蓮ぼくは…」
「いるんだ、ねえ。やはりいるんだ」
雄太が口を開いたのと同時に、蓮がぱっと顔を上げてはっきりと言った。大きな声ではなかったが、凛と狭い部屋に響いた。
「で、おやじは何て?」
急に蓮が自分の心を読んだので、雄太は答えるのに一瞬かかった。
「榛名さまは、いいかげんそんな酔狂なことはやめろって…」
「酔狂なこと!」
蓮が手にしていた新聞を放り投げてゲラゲラと笑った。「確かに酔狂なことかもしれないさ、おやじにとっては」
ぱんぱんと剥き出しのふとももを叩くと、空気中に埃が舞い上がった。
「でもぼくにとってはそうじゃない」
「いい加減にしろよ、蓮」
雄太があぐらをかいた蓮をまたいで、捨てられた新聞を拾い上げた。目的の記事はすぐにわかった。
「本日未明、宗女川ニテ惨殺死体。血液全テ抜キトラレタリ…なあ蓮、本当にこれが妖怪の仕業だっていうのか? 妖怪なんてほんとにいると思ってるのか?」
「妖怪じゃない。吸血鬼さ」
新聞を投げつけても平然としている蓮に、雄太はしがみついた。
「なあ、蓮。ぼくの立場も考えてくれよ。ぼくだって君が好きなことをするのに反対なわけじゃないんだ。でもやりすぎだ。それに…ぼくが榛名さまには逆らえないのは君だってわかってるだろう」
「ああ、君には迷惑をかけているね、雄太」
それでもまだ平然としている蓮に、雄太は怒りで混乱さえしそうだった。
「ねえ雄太、ぼくはね、殺されたって何か分かるまでここにいるし、何か分かったらそこへ行くよ…」
「そこって?」
雄太の膝はもう埃だらけだった。頭の先からつま先まで流行ものを身につけた彼は、裸で垢と埃まみれの友人の美しさに昔から嫉妬していた。
「さあ、わからない」
蓮は友人の膝をじっと見つめながら言った。
「目途は立ってるんだけどね」
友人の膝に黒いすす汚れを見つけて、ニッと笑った。

 朝から榛名邸は大忙しだった。雄太も自分の仕事に手いっぱいで、自分の机に置かれた手紙に気づいたのは昼をすぎてからだった。
 ”来てくれ”
蓮の字だった。雄太はその字を見たとたん、忙しい自分にこんな呑気な手紙を寄こして来る友人に腹を立て、手の中のそれをくしゃくしゃと丸めるとそこらに投げ捨てた。しかし、ふと、ずっと部屋に引きこもっていた蓮がわざわざここへ来てこの手紙をここにおいたのだろうかと思い直し、自分が投げ捨てた手紙を拾い上げると広げ直した。
 やはり親友は自分を呼んでいた。
 雄太は机の上に広げていた帳簿に適当な紙をはさむと、急いで連の部屋に向かった。嫌な予感を振り払うように、部屋の扉をあけた。
「やあ」
そこにいたのは、地上で一番の美男子だった。昨日まであんなに伸びきっていた髭や髪は短く刈り込まれ、垢だらけだった体は太陽に輝いていた。蓮の装いは時代遅れだったが、その上等なシャツや、紐飾りのついたベストや、ゆるやかなズボンを足首で締め付けるブーツは彼によく似合っていた。
「やっと見つけたんだ。今から探して、会いに行く」
連はゆっくりと微笑むと、扉に向かって歩いてきた。
「な、なんだい」
雄太はまた背中で扉を支えながら親友を引きとめた。
「なんのことだい、この忙しいのに」
「忙しいのは田辺の息子が死んだからだろう」
蓮はカフスをとめながら言った。
「田辺はお得意だったものな」
雄太は自分が鉛筆を握ったままでいることにようやく気づいて、その手をポケットに突っ込んだ。
「知っているなら手伝ってくれよ、蓮。なにしろ…」
「田辺の息子はどうやって死んだか、知ってるかい」
雄太の嘆こうとするのを遮って、蓮はブーツの紐を結び始めた。
「血を抜かれて死んだのさ!」
ゲラゲラと笑う友人を、雄太は心底恐ろしく感じた。
「蓮、それ…」
「雄太、僕は榛名の息子だよ。田辺の様子を知るのなんて簡単なことさ」
雄太は連の言葉に納得したが、彼の笑顔にまだぞっとしていた。
「それでね雄太、僕は死体を見たんだ…奴は今夜また食事をとるだろう」
ふっと、蓮の顔から笑みが消えた。
「どうしてそんなことがわかるんだい」
「ぼくはずっとここで奴のことを調べていたもの」
言いながら、蓮は雄太の背中から扉を奪い取り、そのまま外へと出てしまった。
「ぼ、ぼくも行く」
雄太はポケットから手を出し鉛筆を投げ捨てると、あわてて友人の後を追った。

 蓮のいう”めじるし”を見つけた時には、もう深夜と言っていい時間になっていた。雄太と蓮は、誰かの屋敷の中庭がよく見える道端に座り込んでいた。蓮曰く、この”めじるし”のあるところに吸血鬼はやってくるのだそうだ。雄太は後悔を超え眠気に苛まれていた。
 音もない、夜だった。
 どんよりとした雲の間から、時折月が覗いていた。
 時間は、流れるのを忘れ暗闇の中で迷子になっていた。
 沈黙と眠気が、ゆっくりとあたりに充満していた。
蓮がぴくりと動いたので、雄太は中庭を見やった。質素な中庭だった。この屋敷が誰のものだったか思い出すのも面倒だった…屋敷から、少女が出てきた。あれが生き血をすする鬼なのだろうか? 雄太は帰りたいとはっきり思った。
 ふと、中庭に立つ女に気づいた。大女だった。なぜ今まであんな大きなものに気づかなかったのかと雄太は不思議に思った。
「いけない、逃げられてしまう」
言葉よりも早く、蓮が動いた。植えこみを乗り越え中庭に侵入した。びっくりしたが、雄太も慌てて後に続いた。
 少女が音に気づいてこちらを向いた。通夜のある黒髪が、月の光に輝いていた。
 中庭には、少女ひとりきりだった。  蓮は何かを言いかけた。けれど、唇は空を切るだけだった。  薄紫色の空が、輝き始めていた。膝を抱え一言もしゃべろうとしない友人の隣に、雄太はただ座っていた。  朝陽が、足元の草に影をつくり始めた。弱い風が頬を流れていた。 「まだ仕事が終わってないんだった」 雄太は蓮の肩に肩をぶつけ、立ち上がりながら言った。 「ぼく、帰るよ」 ああ、と蓮が答えたのが聞こえた気がした。見下ろした先の友人は、小さかった。 「ねえ蓮、おぼえてるかい。僕たちが子どもだったとき、一緒に家出をしたね」 ふと口をついてきた言葉は、きっとちぎれ雲のせいだった。 「あのときどこまで行ったか覚えてるかい…丸1日歩いたっけね」 蓮がゆっくりと顔をあげ、真っ赤になった目で雄太をじっと見つめた。 「あれ、大石神社だったんだよ。気づいていたかい。僕は使いでよくあの前を通るからね」 雄太はポケットの中に手を突っ込み、鉛筆が無いことにふと気づいた。 「あのときは、世界の果てにきたような気がしてた」  ポケットから手を出すと、鉛筆の削りカスだけが指の間からこぼれ出た。雄 太はくるりときびすを返すと、帰路をゆきはじめた。  1日が、始まろうとしていた。