店内雑感

 上着を持ってこなかったのは失敗だったと、思っているのだろう。
彼女は二の腕を擦る妹を見て見ぬふりするつもりだった。出かける直前まで、上着を持ったのか何度も聞いたのに。
「ねえ、ゆっちゃん…」
ところが妹の方から話しかけてきたので、反応しないわけにはいかなくなった。いや、聞こえていないふりをするという選択肢もあるのだが…いや、妹のことだ。反応するまで声をかけ続けるだろう。
「なんかここ、寒いね」
上着を持ってこいって、あれだけ言ったじゃない。
そんな言葉は無駄どころか、新たな問題を引き起こす可能性すらある。きっと彼女は、今自分がどこに座っているのかも忘れて立ち上がり…いや、立ち上がりはしないかもしれないが…ともかく、叫ぶか、ほとんど叫んでいるに近い大声でこういうだろう―
「そんなこと言ってなかった!」
あるいは
「こんなに寒いと思わなかった」とか「我慢できると思ったの!」
いや、会話だって成り立たないかもしれない。過去にはこんな例だってあった。
「なあに、私が悪いって言うの!?」
とにかく碌なことにはならない。妹の金切り声を現実にしてはならない。
 彼女は自分の上着を脱いで妹に差し出した。妹は顔中に不快感を浮かべる。
 なに、そんなの着ろっていうの?
「ああ…ありがと、でも悪いからいいよ」
抑揚のない声でつぶやくと
「さむうーい」
わざとらしく肩をすくめた。
 彼女も寒かったが、再び上着を着るわけにはいかなかった。ゆっちゃんだけ暖かくて良いよねー…妹の視線のほうが冷たい。
鞄の中に上着を押し込みながら、妹には聞こえないよう小さくため息をついた。
 いつもこうだ。
 
 いつもこうだ。
 あの姉妹はこの店の常連だが、姉が妹にこそこそと気を使うたびに溜息が出る。
たしかに、あの姉妹の妹のほうは---何度かこの店でも大暴れしたことがあるが---機嫌を損ねると大変だというのは事実だ。しかし、それにしてもあれでは言いなりではないか。あの姉妹を見るたびにやりきれなくなるというだけで、彼は一時期店を辞めることすら考えたことがあった。
 できるだけ小さく丸めた溜息を鼻から吐き出すと、彼はトーストされたばかりの食パンを切った。
「テリー」
カウンターの向こう側から声をかけられドキリとする。サンドイッチもうできます、と言いかけた彼を、ウェイトレスは身振りで制した。
そしてカウンターに身を乗り出し、ささやく容に
「2番テーブルさあ」
と切り出した。
2番テーブル。確認するまでもない、あの姉妹の席だ。
「聞いてたでしょ、おっきい声で寒い寒い言ってたの」
「聞こえてました」
さりげなく訂正するが、ウェイトレスの目は「わかってるんだから」と笑う。
「今さ、注文入ったんだけど、あの妹。なに頼んだと思う」
首を傾げる彼を楽しんだあと、ウェイトレスは注文票を彼に差し出した。
「ええっ…コーラフロートって…」
本当に驚いたのだが、しかしウェイトレスのために少し大げさにリアクションをとった。
「ほんと」
ウェイトレスも、大げさに溜息をついてみせる。
「あのお姉さんもさ、なんで付き合ってんだか」
ウェイトレスは2番テーブルを一瞥した。妹がなにやらわめき、姉が慌てて鞄から何かを取り出していた…
「いっつもあんな感じなんだから」

 いつもこの店はこんな感じなんだから…
飲み物は比較的すぐに出て来るが、食べ物はなかなか出てこない。カウンターの向こう側の男店員は、ウェイトレス姿の女店員となにやら談笑している。彼女は肩をすくめて冷めきった珈琲を飲んだ。
きっとハムサンドは、この珈琲を飲みきってしまった後に出てくるのだろう。
 いつもこうだ。
でも、この窓際の席は格別だ。窓の外に見える大通りをじっくりと眺められる。人が歩いているのを見るのが好きだ。いろんな人、いろんな格好、いろんな仕事、いろんな関係。
部屋に閉じこもっているばかりじゃ見れないものだ。休日にこの席に陣取るのは、彼女の数少ない趣味のひとつだった。
 今日は少し雨が降っている。そのせいで少し肌寒いが、おかげで大通りにはドラマがあふれている。傘という小道具が想像を掻き立てる。
 彼女はゆっくりと足を組むと、もう一口、珈琲を飲んだ。おかわりを頼もうか。少し晴れてきたし、もう少し鑑賞を楽しめそうだから。