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最初の一杯

 確かに社長の言ったことは本当だった。
 僕は今、社長室にいた。もちろん前の会社の社長室ではなくて…いや、今も給料を貰っているから、前の会社というのはおかしい。今の会社…というのも変だ。僕は表向きクビになったのだから。
 つまり、僕は前の会社をクビになったことになっていて、他の会社にスパイをすることを条件に、無職ながら給料を貰っている。なんとも表現しづらいけれど、とにかくそんな状態で…首になってから一週間もしないうちに、とある会社から電話がきた。僕を雇いたい、と。
そして僕は今日、新しい会社の…いやそれも変な言い方だ…スパイ先の…うん、スパイ先の会社の社長室に招かれたのだ。
社長は僕が会社を辞めたとなったらすぐに声がかかるはず、と言っていた。きっとこの会社がスパイ先ということで良いのだろう。
 この社長室は、びっくりするほど前の会社…つまりスパイ元の会社と同じだった。部屋の一番奥には社長用の机が置かれてあり、その前に来客用のソファセット。壁を埋め尽くす本棚。部屋には窓がない。
社長室というのはどこもこんなレイアウトだと決まっているのだろうか。
突然、ドアが開いた。僕をここまで案内した女性が顔を覗かせる。まるで僕がここに座っているか確認するように。
「お待たせして」
すみません、とは言わずに言葉を切った。
「今社長が戻りましたから、すぐ来ます」
僕は頷くことしかできない。
「なに? もう来てるの?」
扉の向こうから女性…というよりも、少女のような声がする。
「やだ。待たせちゃってるの?」
どたどたという音と、少女の声が近づいてくる。案内の女性が振り返ったところをくぐり抜けて、声の主が部屋に入ってきた。
僕は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
僕よりも少し年下だろうか。若い女性…少女から女性になりたてといった感じだ。茶色い瞳はまだくりくりしているし、同じ色のまとめ髪からは癖毛がこぼれ落ちていた。
彼女は足早に部屋に入ると、僕に名刺を差し出した。
「あなたね。兄の会社で働いてたっていう事務員は」
混乱気味の僕は名刺を読む…彼女がスパイ元会社社長の妹だ。
「しかも5年も働いていたんですって?」
社長席の椅子に座った彼女は、ゆっくりと足を組んだ。
「5年も!」
大満足と言った感じで笑う彼女をよそに、案内の女性がお茶を持ってくる。
「ああ、彼女ね、私の秘書。」
僕と秘書は目を合わせ会釈する。
「でね、ぜひあなたをうちに雇いたいの」
どうも話が急なのはこの兄妹の性質らしい。
「だって5年よ。うちの業界はそんなに続く人いないのよ。兄さんの会社にだって5年も働いた人、ほかにいないんじゃないかしら」
案内の女性はお茶を置いても部屋から出ていかず、盆を持ったまま出口の近くに立った。
「でも僕は事務でしたし…」
僕は小さい声で切り出した。大変なことになった、と心のなかで繰り返していた。
「それに僕は…」
「ねっ」
女社長は身を乗り出す。
「立ってないで座りなさいよ」
そして座る僕に追い打ちをかける。「給料は前と同じでいい?」
僕は何から答えていいのかわからず狼狽える。
「社長」
秘書が盆を指先で弄びながら窘めた。
「そう、給料だけじゃないわ。ほかもね、前と全く同じにするから」
しかし女社長は止まらない。
「なんでもね。おんなじにするわ」
社長の合図で、秘書が僕に一枚の写真を差し出した。受け取って見つめる…これは、僕が前に働いていた部屋だ…いや、厳密には少し違う。それよりも少し、なんだろう、なにかが違う。
「合ってる?」
首を傾げる僕に、秘書が補足する。
「あなたが以前働いていた部屋と違いはないですか?」
なんだか、と言いかけて淀む僕に
「色々と伝手をたどって再現してみたのですが…」
秘書の言葉に、僕はようやく違和感の正体に気づく。
「ポットが古いです。ここにあるのは黒いポットですが、最近白いやつに買い替えて…」
ん?
「再現?」
「そうよ。全部兄さんと同じにしたいの」
ぜんぶよ。女社長は強調した。
「あなたの給料も、部屋も、仕事内容もね。どんなふうに仕事をしていたか、あとでそこのに詳しく教えてやってちょうだい」
そこの、と言われて秘書は斜めに頷いた。
「で、いつから入社できるのかしら? 今日からでも良いけど」

 案内された部屋は、以前働いていた部屋とほとんど同じだった。湯沸かしポットが、故障させる以前の古いモデルなだけだ。
「ポットはすぐに買い替えます」
そんな構いません、と言いかけた僕を、秘書は目で制した。
「全て同じにするようにというのが、社長命令ですから」
そうだ。僕の意志は関係ない。
 僕はぐるりと部屋を見渡した。妙な気分だ。全く同じだ。
「さて」
なんとも表現し難い感慨に浸っている僕に、秘書が切り出した。
「早速ですが、いくつか書類のサンプルを持ってこさせますので、以前どのように書類を扱っていたかお聞かせ願えますか。書類の形式も統一させますので」

背中の毛穴から、じわり、と汗が滲み出た。

 そうだ、僕は重大な秘密を抱えてここに立っている。重大なふたつの秘密を。
「上着を脱いでも良いですか」
声が震えないよう腹の底に力を入れながら、僕は聞いた。
「いつも仕事を始める前に…上着を脱いで、椅子の背もたれにかけていたんです」
秘書はええ、構いませんよと頷いた。
「以前と同じようになさってください」
「それから」
相手の言葉が終わる前に、僕は慌てて付け加えた。
「お茶を。飲ませてください。いつもそうしていたので」
手のひらに汗を感じた。
「どうぞ」
秘書はもう僕を見てすらいなかった。
「いつものようになさってください。書類を持ってこさせます」
形式的に会釈すると、そう言って部屋から出ていった。
 二の腕に鳥肌がたったのがわかった。
 とにかく、お茶を入れよう。
まずは一杯。そうして、とにかく落ち着こう。