第二の人生

人間は間違った選択をするものだ。
僕は友人の孝介を尊敬している。
孝介は模範的な児童であったし、生徒であったし、学生だったと思う。
成績はぶっちぎりというわけではなかったが、まあ優秀なほうであったし、何より教師の
覚えが良かった。地味ではあったが、目立たない学生では無かった。少なくとも僕は古く
からの友人として、彼の人生に信頼を置いていた。
「しかしね」
串を振りながら語る孝介の姿は、煙のせいか少し遠く見えた。

僕は孝介の幼馴染ではあったけれど、孝介ほど優秀でもなければ、模範的でもなかった。とはいえある意味で、将来を約束はされていた。それは職人の家系に生まれた宿命であっ
た。

僕は仕事終わりに孝介に呼びだされ、焼き鳥屋にいた。
僕は自分のことを堅物だとは思わないが、しかし繁華街で飲むというのは実に久しぶりの
ことだった。ネクタイをはずしチューハイを煽る孝介の姿は、彼には似つかわしくないよ
うに感じた。
いやしかし、会社員というのはこういうものなのかもしれない。
「しかしね、雄大」
ああ、彼は何か僕に語りかけている。しかし周りの喧騒のせいで明瞭に聞き取ることはで
きなかった。彼も、僕の目ではなく、使用済みの串を仕舞う壺をじっと見ていた。
「僕はね」
僕もなんとなく、彼の見ている壺に目をやってみた。
「僕はもういい加減に、自分のことを騙せなくなってきたのだよ」
この言葉だけはやけにはっきり聞こえた。
はっとして、孝介の顔を見た。
彼は僕の目を見ていた。

目の前に置かれたジョッキには、烏龍茶が揺れていた。とはいえ中身の殆どは氷だ。
孝介のチューハイにはほとんど氷は残っていなかった。ただ、ひしゃげたレモンが貼り付
いていた。

「本気なのかい」
彼がこれまでに何を言っていたのかわかりもしないのに、僕は確認した。
彼の言葉ではなく、眼差しに確認をした。
「こんなところで話すことじゃないと思っているのだろう」
大きな口で彼は笑った。
「いやしかしね、これでも考えに考えたのだよ」
でもやっぱり君は飲まないのだね。
彼の視線は僕を離さない。僕は目の前のぼんじりに手をのばす。
ようやく、でもゆっくり、そして断片的に、彼の言葉が戻ってきた。
そうしてつなぎあわせた彼の言葉は、僕の胸を掻き乱していた。
「親父さんもご健在のうちにと思ってね」
「僕は反対だ」
急に僕が大きな声を出したので、孝介は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、すまない。不吉なことを言ったね」
違う。僕が反対したのは、今話しかけたことにではなく、戻ってきた彼の言葉にだった。
僕はそれを伝えるために、ジョッキを握って俯いた。
孝介が、例の壺に串をそっと刺した。
聞こえるはずのない、串が壺に刺さる音が、した気がした。
孝介は何か言いかけたようだけれど、僕をじっと見ると言葉を飲み込み、ハツに手を伸ば
した。
僕は孝介ではなく、孝介に齧られるハツをじっと見ていた。
戻ってきた言葉を、ようやく組み立てることができた。

孝介はジョッキを空にして、大声で烏龍茶を注文した。
僕のジョッキはまだ氷ばかりだ。

「あのね、僕の父はもう弟子をとっていないんだ」
きっと蚊の鳴くような声だったが、孝介には届いたようだ。
「そう、しかしまあ、頼むだけ頼んでみても良いだろうか」
彼は酒に強いのだろうか、それとも普通はチューハイ一杯では酔わないものなのだろうか。
僕などは鳥を焼く煙だけで、現実離れしたような気分になるというのに。
「どうだろうね、とらなくなって随分だから」
この言葉は流石に届かなかったらしく、彼は右耳を僕に見せて"もう一度"と催促した。
「最近は旅行にばかり夢中でね、現役の頃はできなかったことだから」
僕は彼の目を、見た。じっと睨んでいた。
彼も僕の目を見返してきたが、すぐに僕の言葉の意味に気づいた。

店員が、烏龍茶のジョッキを孝介の前に置いた。
彼は氷でいっぱいのジョッキを持ち上げた。
「いやあ、すまない。これは。大失敗だね」
鼻を掻く彼を見て、僕は今日初めて、彼をちゃんと見た気がした。
「しかし僕の決意は本物なんだ」
僕が笑ったのは彼にとって意外だったのだろう。心外だという表情だった。
「日を改めさせてくれよ。ねえ」
ああ、僕は笑っている。僕は厨房に戻ろうとする店員を呼び止めている。
「ねえ孝介。やはり僕も一杯頂くよ」
なんだい、今更。烏龍茶なんか頼んでしまったよ。
拗ねる孝介に、しかし僕は、彼は烏龍茶のジョッキの氷も溶かすべきだと思うのだった。