最後の一杯

 クビになった。
 いや、厳密にはクビにはなってない。
 とはいえ、クビになったとしか表現しようがない。
 僕は自分のデスクの前で立ち尽くしていた。もうどうしようもない。
 どうしろっていうんだ。

 ほんの一時間前、僕はいつもどおりに出社した。入社五年目。オフィスのドアを開けてからの動作は流れるように無駄がない。上着を脱ぎ、腕まくりしながらタイムカードを押し、上着を椅子の背もたれにかけながら着席する。湯沸かしポットの電源を入れたら、湯が湧くまでの間に今日一日でやるべきことを書き出す。お湯が湧いたらマグカップに注ぎ、引き出しからティーバッグを選ぶ…今日は緑茶にしよう。マグカップに放り込んだティーバッグが自分の役目を果たすまでの間に、やるべきことのリストに優先度をつけていた。
 事務所には誰もいない。僕はたった独りの事務員なのだ。とはいえサボったりはできない。サボっていては終わらない量の仕事があるのだ。
「今ちょっといい?」
女性の声がして、僕は振り返った。女性は事務所の中にずかずかと入り込んで僕の机を覗き込んでいた。僕がたった独りでもうかうかサボれない理由のもうひとつはこれで、この会社の人はノックもなしに事務所に入ってくるのだ。そして自分の好奇心のままに僕の机を遠慮なく覗き込む。
「大丈夫です。どうかしましたか」
とはいえ、事務所に人が来るのは稀だ。大抵僕は出社から退社まで誰にも会わない。月に何度か別部署の方が書類を届けにきたり引き取りにきたりすることがあるくらいだ。
この女性は…確か社長の秘書…だったと思う…のだが、たしか、入社時の面談で会ったきりだ。
「ちょっと社長からお話があってね。今大丈夫なら、社長室まで来てくれるかしら」
「はあ、社長」
僕はマグカップから取り出したティーバッグをティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。
「…社長?」
素っ頓狂な声が出る。
「えっ、はあ。なんの、いや、すぐに参ります」
「ええ、お願い。そのままでいいから」
慌てて腕まくりを戻す僕に、秘書の女性は微笑んだ。
「手ぶらで大丈夫よ。社長室、わかる?」

 社長室のドアを開けるなり、社長は僕の肩を抱いて大歓迎してくれた。社長と会うのも入社時以来なのに、パーソナルスペースの詰め方に僕は驚くことしかできない。
「いやいや、仕事中すまないね」
社長は僕を来客用と思われるソファに座らせた。ソファは二人用で、目の前に小さな机と、向かいには一人用のソファが置いてあった。その向こうには社長のデスクが書類で山積みになっていた。僕のデスクの2倍は大きい。部屋には窓がなく、向かいの壁も、左右の壁も本棚で埋め尽くされていた。社長室というよりは書斎のようだと僕は思った。
「いえ、あの、失礼します」
ソファに座ってから失礼しますもないものだが、そう言うしかない。
「実はちょっとお願いがあってね」
なんと社長は僕の隣に座り、肩と肩が触れるような距離で話しかけてくる。僕はパニックに陥り
「いや、あの、恐れ入りますが、その、大丈夫ですから」
なんと言ったらいいのかわからず、向かいにある一人用ソファに座って貰えないかと身振りで示す。
「うん、でも小さい声で喋りたいから、ここでね」
社長は更に僕に近づき、声のトーンを落とした。
 この距離になってしまうと、嫌でも社長の顔が視界に入ってくる。僕は人の顔を見るのが苦手だ。必死に目をそらそうとするが、社長はニコニコと僕の視界を追ってくる。
「あのね…」
僕の視線を捕らえたところで、社長は切り出した。
「きみ、うちに入ってもう五年になるんだってね…」
僕は「はい」と答えようとしたが声にならず、慌てて頷いた。
入社時から変わらず、社長は若々しい。いや、おそらく本当に若いのだろう。髪を金に染めた若者で、茶色い瞳はよく見ると緑がかって見える。照明の関係だろうか。
「実はね、うちの事務員でそんなに続いた人はいなくってね。だからそれってすごいことだよ」
肌は白い。青白いくらいだ。後ろに撫で付けた金髪とよく合っている。スーツはいかにも高級そうだが、残念ながら僕に知識がないので、本当に高級なものなのかはよくわからない。
「だからね、今日で君をクビにする」
眉と髪の生え際は地毛の色のままのだろう、黄味がかった茶色だった。ん? クビ?
「クビ。クビですか」
口に出してみて、ようやく意味を理解しかける。
「えっ、クビ? クビですって?」
パニックになりかけた僕の肩を、社長はがっしりと捕まえた。
「聞いて聞いて。最後まで聞いて」
指が肩に食い込む。
「は、はい。聞きます」
僕は反射で返事をする。
「とりあえずね、君をね、クビにします」
「クビ?」
「聞いて聞いて。それでね、君は無職になります」
おそらく今ボクはポカンとした顔をしている。
「クビ…つまりクビになるんですか、僕」
「なる」
パニックが押し寄せてくる。
「えっ、な、なぜ、いや、ごめんなさい。すみません。勘弁してください」
狼狽える僕の肩を捕まえたままの社長の手に、もう一度力が入る。
「大丈夫大丈夫。大丈夫だから聞いて聞いて」
「いや、大丈夫じゃないです。クビになるんだから大丈夫じゃないです」
「いや大丈夫だから。給料は払うから」
はっ?
僕の時が止まる。
「給料は変わらず払うから。毎月」
社長の視線が僕の瞳をもう一度捉える。
「まあその、申告できないお金にはなっちゃうけど。君は表向き無職ってことになるわけだから」
「おもてむき?」
僕の鸚鵡返しに、社長はニッコリ微笑む。
「うん。だからね、安心して。落ち着いて最後まで聞いて」
落ち着きはしたけれど、僕の頭の中は混乱したままだ。
「ええと…」
つまり僕はちっとも落ち着いていない。
社長は僕の肩を掴んでいた手のちからを緩める。
「たぶんクビにしてから一週間もしないうちに、転職のお誘いが来る。そこに転職してほしい」
僕にはもう相槌を返す気力がない。
「転職したら、新しい会社から給料が出るだろうけど、こっちからも変わらず給料を出すから。つまり収入は約二倍になるわけで、君にとっても悪い話じゃないはずだ」
ただ頷く。同意しているわけでも肯定しているわけでもなく、ただ頷く。
「それで…その会社で扱っている書類や、知り得た情報を、教えてほしいんだ」
しばらくの沈黙のあと、僕の中でようやく話がつながりはじめる。
「つまり、つまりそれって…」
「そう」
社長は僕の耳元に唇を寄せて囁いた。
「スパイだ」

 こうして僕はクビになった。
 いや、だから、厳密にはクビではないけれど、表向きクビになった。
事務所に戻ったときには、緑茶は冷めきっていた。僕はそれを一気に飲み干した。
僕は今後の方針について社長室で話し合った際、意見が割れて社長に暴言、そしてクビになったことになるらしい。私物をまとめなければ。マグカップのほかに何があったっけ?
 いや、そんなことよりも問題はほかにある。いや、しかし…問題がありすぎる。
しかし今抱えている問題は、リストにして優先度をつけることすら許されない。頭を整理するには時間が必要だ。
 僕は湯沸かしポットのスイッチを入れた。
もう一杯だけ。それくらい、許されるだろう。