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梅雨の夜

 私と現実との間には隙間がある。真空の隙間だ。
現実に触れようとすれば、気圧差に耐えられずに皮膚が裂け肉が吹き飛ぶ。

この隙間に気づいたのは、ごく最近だ。

恐怖は朝と言わず昼と言わず腹の中心からにじみだす。
脳は後頭部から細く伸び上顎に重心を残し喉の中央で鼓動する。
心臓はみぞおちで震え腸の中の排泄物を揺らす。
ぞわぞわと皮膚の上の空気が揺れる。空気は重くなり太陽だけがいやに白く輝く。

 夜に出会う恐怖にはまだ、朝という希望がある。孤独から漏れだした恐怖には誰かとい
う救いを持てる。1日のうちには救いの要素のない時間のほうが長い。

「美香」
彼女と接する時間だけはトンネルの中だ。現実は卵型のアスファルトの外でとぐろをまい
ていて、そしてトンネルはいずれ終わる。
「聞いてるの」
「なあに、先生」
先生、というその言葉はこの空間では嫌みでしかない。けれど、嫌みを楽しむその行為は
恐怖から最も遠い気がした。
「…コンビニあったら寄って」
 不安と恐怖は酷似しているが同一ではない。不安はただ渦を巻く。渦を巻いて停滞して
いる。それはもしかするといつまでもそこにあるのかもしれない。けれど、常にあるので
はないのだ。便秘のようなものだ、そこには確かにあり、私を苦しめ、つきまとうけれど
…解放される瞬間だってある。
「メイク落とし? 貸すのに」
黄色から赤になる瞬間の信号機の下を、私たちは加速して通り抜けた。彼女が小さな悲鳴
をあげた。

 遅くまでやっているファミレスは、乾燥している。目を背けて通り過ぎなければ。
 ふと、目の前に差し出された白い指を握った。あまりに当たり前のことだった。彼女の
笑い声は鳥のいない空に響いた。
 彼女は現実に触れられるのだろうか?
「ねえ」
手のひらの中の指は溶けてしまいそうだった。

私は彼女の言葉だけをじっと待った。