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楽園の羊

 ただただ広い草原に、2匹の羊が寝転んでおりました。
羊のだらけぷりと言ったらもう、脳が溶けているのかと思うほどでした。2匹とも毛皮さ
え脱ぎ、片方は腹を、片方は背中を地面にどろつかせ、太陽や土を見るだけでぼおっとし
ておりました。脱ぎ散らかした毛皮は羊たちのそばで風にそよぎ、むんとあの獣独特の臭
いを放っておりました。
「あー、あー、もー、だあるい」
太陽を見ている羊が、地面を見ている羊の背中を拳でたたきながら言いました。いえ、
言ったというよりも、ただ考えていることがだらしなく口から漏れただけでした。羊たち
をよく見ると、太もものところにそれぞれ「218」と「32689」と焼き印がありますので、
この物語では彼らをその番号で呼ぶことにいたしましょう。

『ひつじがいっぴき…ひつじがにひき…』

 どこからか、子供の声が聞こえました。その声は、まるで世界じゅうに響いているかの
ようでした。ひつじが数えられているというのに、この2匹はぴくりともしませんでした。
「あ、やべ、涎でてた」
218が、地面に落ちそうな涎をのたのたとぬぐいながら言いました。
「あーあー、もうう、まぶしい」
32689は、また218の背中をたたきました。3度たたかれている間に、218はようやっと自分
の涎をぬぐったのでした。
「なんかさあ、こう、やんないの、誰か。おもしろいこと」
ぬぐった涎でべたべたになった手の甲を、そばにある毛皮になすりつけながら218がぼや
きました。32689は自分の毛皮に涎をつけられているのを見ながら、ああともううとも区
別のつかない相槌をうちました。

『ひつじがにじゅうにひき…ひつじがにじゅうさんびき…』

「どういうことよ」
32689が、また218の背中をたたきながら聞きました。
「おもしろいことって、具体的に何」
「言ったらやってくれんの」
218が体の向きを変えて、32689の顔を見上げました。
「だるいからやんない」
32689の答えに、218はわざとらしくもある溜息をついて、もとの格好に戻りました。
「おもしろくなああい」

『ひつじがななじゅうろっぴき…ひつじがななじゅうななひき…』

太陽は、ちっとも動かずに輝いていました。そよ風が、いつもと同じ方向から吹いていま
した。ここはずっと昔から、ずっと未来まで、このままなのでした。
「こんなはずじゃなかったよなあ」
消えいるような声で、どちらかが呟きました。そしてどちらも、聞こえないふりをしてい
ました。

『ひつじがきゅうじゅうきゅうひき…ひつじがひゃっぴき…』

 32689が、空を見上げて、感心したように言いました。
「お、頑張るなあこの子」
それは、はじめてこの世界じゅうに響く声に向けられた関心でした。
「おまえ呼ばれるかもよ」
32689が、にやにやしながら218を見下ろしました。
「そんなわけないだろ、途中で寝ちゃうよ」
218は、少しだけむっとしたようでした。

『ひつじがひゃくにじゅうよんひき…ひつじがひゃくにじゅうごひき…』

 218が、いつものように草をむしり始めました。どれだけむしったって、この草原の景
色はちっとも変わらないのでした。
「おまえそれやめろよ」
32689が、218を見ずに顎をあげながら言いました。
「むかつくから」
「でも暇だし」
218はむしるのをやめません。
「ああ、もう、やめろってそれ」
32689が頭を降りながら言いました。218の背中をいつもより強くたたきますが、218はむ
しるのをやめません。
「あんさ、ヒツジーランドとかどうよ」
ひとしきり背中をたたかれた後、218はやっと手を止めて言いました。
「何」
32689はうっとおしそうに答えます。
「ここに。できんの。ヒツジーランド」
「夢と魔法の国?」
「そう…夢と魔法…と」
218はぱくぱくと口だけ動かして、32689に最後のテーマを伝えました。そうして、二匹で
げらげらと笑いました。

『ひつじがひゃくきゅうじゅうにひき…ひつじがひゃくきゅうじゅうさんびき…』

 少し前から、218と32689は固まったままでした。彼らがここに眠る前に数えられるため
の羊としてやってきてから、こんなことは初めてだったのです。32689は、ついに友人が
呼ばれるのではないかという期待に、218ももちろんその期待と、そして不安に胸を高鳴
らせていました。
「よ、よば、俺呼ばれる、かも」
218が目玉をぎょろぎょろさせながら言いました。
「とりあえず毛皮、毛皮着ろ」
32689も、ぎょろぎょろさせました。
もたもたと立ち上がる友人に、32689は毛皮を投げつけながら急かします。
「ほら着ろ着ろ着ろ着ろほらほらほらほら」
「う、うん着てる着てる」

『ひつじがにひゃくにひき…ひつじがにひゃくさんびき…』

どきどきという音が、胸を破ってしまいそうでした。慌てるばかりで、毛皮から218の頭
がなかなか出てきません。32689も立ち上がってぐるぐると同じところを歩いたり、突然
座り込んだりしていました。
毛皮をきちんと着た218が、数えられるために走り出そうとした、そのときでした。

『ひつじがににゃくじゅうい…』

 誰かの声は、煙のように消えてしまいました。沈黙だけが世界じゅうに鳴り響き、そよ
風が草をなびかせました。32689はへたりと座り込み、218は着ていることが耐えられない
と言わんばかりに毛皮を脱ぎ捨てました。
「結局、な」
またうつぶせになりながら、218が言いました。
「糞っ」
32689は、218の投げ捨てた毛皮をまだぼおっと見ていました。
「218なんか呼ばれねえよ、こんなとこまで数える奴いねえよ」
「俺なんかもっと呼ばれねえよ」
32689も、また草原に寝転がりました。
「こんなはずじゃなかったのにな」
どちらかが、また言いました。空から、また別の誰かが羊を数え出す声が聞こえました。
「…こんなはずだったのかもな」

もしかすると今度こそ、218は呼ばれるのかもしれません。
ひょっとしたら、32689だって。
そよかぜは、青空に浮かぶ雲をゆっくりと動かしていました。
雲は、ここにいる裸の羊たちより、もっとずっと羊らしく白くもこもことしていました。