バス停

 田んぼの真中を突っ切るように引かれた道路に、黄色いベンチが置かれていた。
正確には、黄色いベンチというには古びすぎているけれど、しかし黄色だったベンチと表現するほど面影を失いすぎてもいなかった。
ベンチには老婆が腰掛けていた。老婆と表現するほど年寄りでもないが、しかしもう若くはない。
老婆の傍らには買い物袋が放り出されていた。ごつごつと膨れた袋は、許容量を超えていることを必死に訴えていたが、これはレジ係が袋の裁量を見誤ったわけではない。その証拠に、この袋のなかには折りたたまれた新品のレジ袋が押し込まれている。
 ずっと遠くから聞こえていたエンジン音が、ようやく近づいてきていた。老婆がゆっくりと左側を見やると、バスが到着するところだった。
バスはゆっくりとスピードを落とし、老婆の前に昇降口をぴったりと合わせて止まった。
コンプレッサーの音とともに、バスの扉が開いた。
「乗らない! 乗らないよ!」
老婆は買い物袋を取られまいと抱え込みながら叫んだ。
バスはそれでも念のためといったふうにしばらく止まっていたが、老婆が「さっさと行け」と身振りで抵抗するのを確認すると、扉を閉じ、ゆっくりとまた出発していった。
 遠ざかるエンジン音を見送りながら、老婆は買い物袋をまた放り出した。
 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。いや、それは確かに誰かの叫び声だった。老婆が訝しげに左側を見やると、スーツ姿の青年が鞄を振り回しながら駆けてきた。
青年は全速力で走っていたようだが、ベンチの前で力尽きた。スーツに土がつくのも構わず、膝を地面についた。
「乗ります…」
もはや届かない思いを喉の奥から絞り出したのを最後に、ゼイゼイと肩で息をする。
道路の先を見ようとして老婆に気づいた青年は、何か言いかけて口を開くが、やはり胸からは呼吸しか出てこない。
 青年は息を整えることにしたらしく、地面に視線を戻し手のひらで体を支えた。老婆は買い物袋を少しだけ自分の体に引き寄せた。
 いつまでもそうしているわけにはいかなかった。青年は呼吸が落ち着いてきたのか、突然立ち上がり、息を吸って、息を吐くと、老婆の、買い物袋の、隣に腰掛けた。
 大きく息を吐く。
 反射的に、大きく息を吸う。
青年は顔を上げて…そしてきょろきょろと辺りを見回した。数秒考えてから、老婆に声をかけた。
「次、いつバス来ますかね」
「バス停じゃないよ」
老婆は青年のほうを見もしなかった。

何でもない話


レストランの駐車場に一台の車が止まる。
その中から一組のカップルが出てきた。
「オススメの店なんです。」
楽しそうに言う男。
「昔、よく食べに来ていました。おいしいんですよ、安いし。」
「ふつうのファミレスじゃない。チェーン店なんだから、どこも一緒でしょ?」
女が、からかうように言う。
「そうでもないんですよ。」
子供のようにはしゃぎながら店に入る。
女も後に続く。

注文を取り終えた店員が、二人の元から離れた。
「今回は私がおごるって言ったでしょ。」
女がおしぼりの袋を開けながら言う。
スペシャルステーキとステーキセット、どっちにするか迷ってたんでしょう。スペシャ
ルステーキにすれば良かったのに。」
「そんな、そっちの方が高いじゃないですか。」
「だから、今回は私がおごるって言ったじゃない。貴方はお金の事、気にしなくてもいい
の。」
「でも、おごられるんだったら、気にしますよ。」
「あのね、もう少しで私たち、結婚するんだからね。遠慮もなにも要らないでしょう。」
「‥でも‥‥やっぱり気にしてしまいますよ。」
女が、ふうと息をついた。
「前から言ってるけど、私語でいいんだよ。」
「‥でも僕、私語で話すと方言が出ちゃいますから。」
「あのね、私は別に田舎生まれを軽蔑したりしないわよ。」
「そうじゃないですよ、方言が嫌なわけじゃないですよ。ただ、僕は田舎の中の田舎って
ところで生まれたから、方言が凄いんです。きっと、僕が方言で話したら、会話になりま
せんよ。」
女が、もう一度息を付いた。「結婚したら、貴方の土地の言葉も教えてね。」
「もちろんです。」
ステーキセットが運ばれてきた。

 

 

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corrado@comにて「濱田マサミ」名義で公開していたものを再公開

庭の盥

 太陽と草の匂いが、中庭じゅうに蔓延していた。
使い込まれすぎて黄金に輝きはじめていたアルミのたらいは、あづさの足の動きに合わせて中の湯をちゃぷちゃぷ言わせた。午後に入ってすぐの空はどこまでも青く、重そうな雲は真っ白だった。
「お湯加減はいかがです」
すりきれてぺちゃんこになったタオルを抱えながら、ともよがそおっと縁側に出てきた。彼女の真っ黒な髪は、あづさの日に焼けて赤っぽくなったそれとは違い、日の光を吸い込んでいた。
「いいかげん、ぬるくなってきたけど」
水面に揺れる太陽を蹴飛ばしながら、あづさは振り返らずに答えた。ぴちゃり、とまた音がした。
 あづさの白い足は魚のようにたらいの中に遊んでいた。
 塀の向うから、きゃっきゃと笑い声がしていた。時折、塀と植木の向うに、黄色い帽子が姿を見せては消えていた。
「でも、いい気持ち」
 答えを聞く前に、ともよは靴下を脱いでいた。畳の上に置かれた薄桃色の靴下が、笑い声が遠のく塀の向うへ行きたがっているように見えた。
「入ってもいいでしょう」
肩と肩をぶつけながら、それでもしなやかに自分の隣に座ったともよが下着姿同然であったことに、あづさは驚いたようだった。返事を待たず、ともよはたらいに足をいれた。

 ちゃぷん。鈍い音がした。
あづさはそおっとともよの髪に指を絡めた。
ともよが水面を見たまま微笑んだ。

 どこからか、甘い匂いがやってきた。中庭の草の匂いとまじると、それは夏の匂いになった。
雨が降るのかもしれないと、ともよは思った。あづさは気づいているのだろうか。
ちらりと左に目をやると、自分の髪をいじるあづさと目があった。なあに、とあづさは微笑んだ。
 雨の匂いがするの
言いかけて、飲み込んだ。あづさは雨を怖がるのだった。

 いたずらっぽい、笑い声がした。塀の向うからだった。あづさは視線だけそちらにやった。ともよはあづさを見つめたままでいた。雨がやってきたのかもしれないと思ったからだ。
 ふと、あづさは蝉の鳴き声に気づいた。
 ふと、ともよは踵がたらいの縁に当たるのを感じた。
 
たらいの湯は、すっかり冷めきっていた。ただ太陽が温めるから、それは水ではなかった。
ちゃぷり、ちゃぷんと音がした。 

旅人の靴

 たったひとつこの世に魔法があるとしたら、彼の靴こそがそうだ。世界の果てと果てを何往復したって、ちっとも擦り減りはしないし、まして穴なんて絶対にできないだろう。
 彼は、旅人なんだ。
 砂漠の真ん中にぽつんとあるその建物に、彼は興味を惹かれて近づいていった。旅人なんて、好奇心が強い人がなるものなのだ。その大きな灰色の建物は、大きさの分だけ旅人の好奇心を刺激したのだ。ううん、まあ、確かに大きいのは大きいんだけど、あんまり砂漠が広すぎて、すごく唐突な感じがするな、なんて旅人は思ったのにちがいないのだ。
 これはまあ、詳しく説明なんてしなくていいと思うけど、建物には入り口があるに決まってる。旅人は注意深く建物を観察していたから、もちろんそれを見つけるわけだ。そうすると、旅人はなんだかわくわくしてきて、入りたいなって思う。思って入り口に近づく。想像してみてほしいんだけど、守衛がいるんだね、その扉には。いかめしい格好で立ってるわけさ。
 ちゃんと想像した?
 旅人は帽子をかぶってたほうがいいな。かぶってたんだ、うん。それでさ、守衛にこれこれこういうわけだから、中を見学させてくれって言うんだ。旅人なんだから、こういう交渉は手慣れたものさ。守衛は上の者に聞いてみないととかなんとか言う。それで扉のところにある電話で中のえらい人と連絡をとるのさ。チンッて受話器の音がする。旅人はわくわくして、どきどきしてる。旅人は中に入れるかな? 入れないとまあ、話が終わっちゃうから、入れるわけだ。そうだね、署長なんかが迎えに来るといい。
ようこそ。砂漠の刑場へ。
いや、大丈夫、このお話は怖くないよ。ただ舞台が刑場ってだけさ。旅人はやさしい良い人だし、署長はおっちょこちょいだけど、怖いことなんてちっともおこらないよ。
 ここが刑場だってことに旅人はちょっとびっくりした。でも、まあちょっとだけ。旅人ともなると、そんなに大げさに驚かなくなるものなんだ。建物はロの字型だった。四角い中庭があるんだ、でも外からはちっとも見えなかった。建物はひっそり静かで、薄暗いんだ。
「ここは国王陛下のおつくりになった施設のなかで、最も技術のすすんだ場所なんです」
 署長は興奮して言うのさ。旅人はきょろきょろしていろんなものを見るんだけど、署長は一番見てほしいものの話をするんだ。
「特にこの刑場にしかない、万能刑機の性能はすばらしいものですよ!」
 でもまあ、旅人はふうんって思ってる。ふうん…それより、罪人はどこにいるのかな。罪人に故郷はあるのかな。そこへも行ってみたいなって。
 署長は興奮しすぎて、旅人の腕をつかむと中庭の真ん中まで引っ張っていく。旅人はちょっと、そうさちょっとだけね、びっくりする。中庭の白い固い砂がズリズリ言う。
「これです!」
 署長が自信満々に紹介した機械は、すっごく大きくて、それで、すごく複雑なんだ、すごくね。木と金属でできてる。複雑すぎて蜘蛛みたいなんだ。見ただけじゃ、どうやって使うのかさっぱりわからないのさ。旅人は大きな機械を見上げるものだから、太陽が白く輝いているのも見えたんだ。
「この万能刑機は死刑も確実にやってくれますが、鞭打ちもやりますし……」
署長は腰にぶら下げていた水筒から水を飲みながら言うんだ。誇らしげに。
「すりの腕も折りますし、鼻をもぐのも、焼き印もこいつでやれるんです」
 へえ、気持ち悪い機械だなって旅人は思ったんだ。署長はつばを飛ばしながら勝手に続ける。
「一番自慢の機能は、罪人の血の処理までやるところでしてね。歯車の細かいところまで自動で掃除しますから、絶対に壊れないんです」
 へえ、そりゃすごい。旅人は、しみじみと思った。ズリズリという音がした。罪人がつれてこられたんだ。
「ああ、ちょうど良い」
署長はゲラゲラ笑って旅人の肩を馴れ馴れしく抱くんだ。罪人はしょんぼりつれてこられる。手も足も鎖でつながれて、ボロをきている。ひげづらの若いやつさ。
 監視員から書状を渡された署長は、苦い顔をした。ちょっとした盗みで、腕を折るだけの刑だった。これじゃ血がでないな。掃除が見せられないぞ。署長はううん、と考えた。
「そいつは何をやったのです」
 旅人が書状を覗きこもうとしてしてくるのを、署長は不自然に体を捻って逃げるわけだ。もうわかるだろ? ぬすっとなんだ、折ったって切ったって一緒さ。署長はいかめしい顔をしておほん、と咳払いする。
「盗みですな。腕を切断します」
「切断ですか!」
 旅人は、この国の法律は厳しいなってびっくりする。罪人が聞こえないところにいる、ね。
署長は監視員に合図する。監視員は罪人を、あの蜘蛛みたいな機械に押し込む。署長がさりげなく、ふらっと機械のそばに歩いていって、まあなんとかうまい感じにパチンとスイッチみたいなのを切り替える。
 大丈夫、こわくないってば。怖い話なんかじゃないんだ。まあちょっと、血は出た。ああうん、腕を切り落としたんだからきっといっぱい出た。機械から噴き出して、赤黒い血が白い土の上にぼたぼたと落ちた。署長がしまったって顔をする。大丈夫、血の話はすぐ終わる。罪人が叫ぶ。ふざけるな、なにするんだ、痛い、あと助けてとか、意味もない叫びを。旅人は、往生際の悪い奴ですななんて呑気に言ってる。慌てた監視員が機械を無理に開こうとする。署長が何か叫ぶ。ちらり、と銀色の光が機械の中で煌くのが見える。監視員の右耳から左胸がぱっくりと割れる。怖くないよ、血がまた出たけど、機械が止まってないのに手を出した監視員が悪いのさ。旅人がびっくりして首をかしげる。なんだかおかしいぞ。署長はやったら咳払いをする。金きり音のような、叫び声のような異音の後、あたりがしんとする。
 旅人は、ぽかんと蜘蛛をみつめていた。土に染み出した血だまりも、機械から流れる血もそのままだ。機械は罪人を飲みこんで閉じたままだし、監視員もぴくりともせず地面に崩れている。
「どうしたんです」
 旅人はまばたきもせずに言った。ううん、旅人はちょっとしか驚いていないよ。
「死にましたな」
 中庭はそれきりしんとなったんだ。

 本当のことを言うよ。たったひとつこの世に魔法があるとしたら、それはぼくたちの想像力だ。このお話にでてきた旅人は何色の服を着ていた? 署長は煙草臭かったかい?  あの蜘蛛はぼくたちさ、ほんのつまらない罪を犯した男と、まじめな監視員の血を想像したろ? じゃあ、殺したのはぼくたちさ、ううん、正確にはぼくじゃない。ぼくなんていない。
 ぼくを想像したかい?

エイトレス王妃

<1>
 国王、エイトレスは三時間前には妻帯者となっているはずであった。
既に広間には大勢の貴族達で溢れ、神父は祭壇の前で朝から聖書を五度も読みきっていた。三時間、この部屋で喋る者は誰もいなかった。
 公爵、サラザウダは、自分の背骨が凍り付いているのを感じていた。
百を超える小国を配下に治め、大陸をほぼ統一した前代未聞の鬼王エイトレスに敵はいなかった。各地で頻発する反乱も、全国的な飢餓や貧困も、鬼王から玉座を奪う脅威とはなり得なかった。大陸の全てが、いや、正確にはただひとつ、大陸の北の果てにある、人口三百人にも満たない極小国スミスを除いては、全てが鬼王の手中にあった。
王国の中でただ一人、サラザウダだけはスミスを警戒した。二十歳になろうとするエイトレスに、スミスから王妃を迎えるよう進言した。
鬼王は承諾した。
 しかし、遅刻である。三時間をすぎ、そろそろ四時間を経過しようとしている。
 サラザウダは、貴族達に部屋を移動して先に昼食をとるよう案内すべきか迷っていた。せめて、あとどのくらいで新王妃が到着するのか知りたかった。
「陛下は、貴族達が先に昼食をすませることをお許しにならないだろう」
 広間の入り口に飾られた花を毟りながら、サラザウダは呟いた。
「陛下がお許しにならないなら、貴族達も我慢するだろう。しかし…」
 溶けた背骨が皮膚中の毛穴から滲み出ているのを感じた。もごもごと口を動かしたが、意味のある単語すらもう出てはこなかった。
「申し上げます!」
 唐突に、軽装の兵士が広間に飛び込んできた。跪くというよりも、転ぶようにして玉座の前へ蹲った。
 王は何も言わず、ただゆっくりと視線だけ兵士にくれてやった。
マルガリータ王女を、ローランド付近で確認したという報告が御座いました」
「ほう、ローランド付近」
 玉座のやや左後ろに立っていた男が、唇以外を動かさずに発言した。彼はこの三時間、微動だにしなかった。彼のことを知らない者は、彼を人間によく似せた精巧な置物だとさえ思っていただろう。
「陛下、ローランド付近であれば並足でも三十分あれば城に到着いたします」
 広間の空気が一瞬、緩んだ。しかし、兵士の体だけは硬直した。
「恐れながら、陛下。マルガリータ王女のご到着は、二時間後……いえ、それ以上かかるかと……」
 一瞬、時が止まった。
「ほう」
 語尾を上げることなく、国王は静かに呟いた。
「報告によると、マルガリータ王女は、徒歩に御座います。そのうえ…」
 サラザウダの心臓は今にも凍りつきそうだった。
「従者を背負っておられるとか」
 びくり、と王の眉が動いた。貴族達は石のように固まった……起きなかった笑いに、兵士はむしろ恐怖を感じた。
 数秒の沈黙を、おそらく広間にいた全ての人間が、永遠のように感じていただろう…精巧な置物を除いては。
「では陛下、王女到着の前にご昼食を」
「ならん」
 サラザウダの退路は断たれた。いや
「では」
断たれたのは、退路か進路か、サラザウダ自身にもわからなかった。
「では、私が馬車で王女をお迎えに参りましょう」
 王の背から、親衛隊長はわざとらしく、ゆっくり言葉を区切って提案した。
「サラザウダ殿、マルガリータ王女は徒歩とのこと。わたくしがお迎えすることは、慣例に反しますか」
「ああ、いえ、セクト殿。陛下がただ一言良いと仰れば」
 先王から仕える公爵は、孤児院から成り上がった親衛隊長が垂らした蜘蛛の糸にしがみついたまま動くことができずにいた。
「シルヴァードを使え」
鬼王は、自分の愛馬を指定した。親衛隊長セクトはゆっくりと玉座の裏から王の御前へ移動すると、さらにゆっくりと跪いた。一瞬ののち、扉の閉まる音とともに、親衛隊長は広間から消えた。

 ローランドは草原の町である。見渡す限りの地平線だが、町に住む人間は地下に住居を持つ。毎夜雹が降り、地上の家屋は一夜ともたないためだ。
「おろしてくださいませ、マルガリータさま、ね」
 ゆえに、少女の声は草原のどこまでも響いていた。
「ねえ、マルガリータさま、もう、大丈夫ですから。ね。おろしてくださいませ」
 背負われた少女は、目の前の背中を非力に殴っていた。艶のある金髪は、まるで太陽の光を吸い込んでいるかのようだった。
「もう平気ですよ、ね。歩けますから、ね」
「駄目だ」
 食いしばった歯の間から、荒い息が漏れていた。喉の奥で、従者を背負う王女は命令した。
「ずいぶん酷く腫れておったではないか。城までもう少しだ。手当てをするまで歩くことは許さん」
「もう少しではないです。おろしてくださいませ、ね。マルガリータさま」
 涙声に、もう力は無くなっていた。
 スミス王国唯一の王女マルガリータ父親の跡を継ぎ王座に就くべく育てられてきた。体は小さく華奢で、最近十七になったばかりだが、五歳幼く見られることもしばしばである。
 今、彼女の栗色の髪は汗でべっとりと頬に貼りつき、額は青ざめ、儀式用の白と紫のドレスは泥だらけになっていた。スカートの中で華奢な膝は震え、食いしばった真っ白な歯の間からは筋肉の悲鳴が漏れていた。黒い瞳だけは硝子玉のように輝き、まだ見えぬはずの目的地をしっかり見据えていた。
 草原に吹いた風に、すすり泣きの声と足音がかき消された。世界が、何もかもを隠そうとしているかのような音だった。
 静寂に、威圧的な音が響き渡った。
 マルガリータは足を止め、遠くに小さく見える黒い影に目を凝らした。
「サンドラ」
 マルガリータの呟きは、だんだんと大きくなる足音にかき消された。名を呼ばれた待女は、気づかずにまだ泣いていた。
 もう一度呼ぼうと、待女の主は口を開きかけた。しかし近づいてくるのが馬に乗った兵士だとわかると、注意の全てをそちらに向けた。
「スミス王国第一王女、マルガリータ様」
 顔が見えるほどの位置にくると、兵士は大きな声で王女の名を呼んだ。青毛の馬の上の兵士は、深い青の軍服を身に着けていた。鎧ではなく、兵士の礼装である。肩に、胸に、首に、軍服のあらゆるところにつけられた勲章が、太陽の光を拒絶するかのように鈍く跳ね返していた。黒い髪を短く刈り込んだ彼は、決して美男子ではなかったが、妙な凄みがあった。
「そしてマルガリータ様の第一待女、サンドラ殿」
 羽毛のように馬から舞い降りると、兵士は王女の前に跪いた。
「わたくしはエイトレス国王親衛隊長、セクト・パレイと申します。お二人をお迎えに参りました」
 セクトの身のこなしや言い回しはどこかわざとらしかった。
「馬車がローランドのはずれにおりますので、呼んで参ります。マルガリータ王女、サンドラ殿を如何なさいましたか」
「転んで足を挫いたのだ」
王女は答えた。
「ひどく腫れている。馬車に医者はおるか」
「医者はおりませんが、わたくしに医術の心得が少々御座います、応急手当くらいでしたら」
「応急手当程度、既にしてある」
サンドラが、主の背でようやく泣き止んだ。ただ、消えてしまいたいという自責の念が彼女を震えさせた。
「では急いで馬車を呼んで参りましょう」
セクトが馬に飛び乗り、地平線へと去っていった。

 五時間以上も遅れたとはいえ無事婚礼が終了し、サラザウダは自室で安心のあまり腰を抜かしていた。
 確かに、貴族達はくたくたに疲れきってはいた。しかし王女の到着まで王は待っていたのだ。婚礼の式中にも何も問題は無かった。
(あとは初夜をお迎えになるだけだ)
しかし、その点に関してエイトレス王に問題は無いはずである。サラザウダの膝にまた力がよみがえってきた。
(遅刻など小さなことだ。とにかく、婚礼は無事に済んだのだ)
 老公爵は元気を取り戻すため、新鮮な空気を吸おうと窓に手をかけた。この夜、エイトレス王国は安泰を手に入れたのだ。
 サラザウダを呼ぶ王の咆哮と、けたたましいベルの音が鳴り響いた。

 時は、少しだけ遡る。
 セクトに付き添われた王と、なんとか歩けるようになったサンドラに付き添われた王妃は、夫婦のために新しく用意された寝室へと案内されていた。
 新王妃は既に睡魔に服従しかけていた。歩きながらも、うとうとと首が揺れる。
「ひめさま、ひめさま、ファイトファイト」
静まり返った廊下では思ったより囁き声が響き渡ってしまい、サンドラははっと顔を赤くした。
新王妃の返事はごにょごにょとしか聞こえない。親衛隊長の肩が震える。
「もう少しです、王妃殿下」
 職務に忠実な彼の、慣例に反して無礼とも言える発言に、異国から来たばかりの侍女の胸は優しく締め付けられるようだった。胃とも心臓ともわからないところが、ただ熱くなり震えているのがわかった。自分の吐息が熱くならないよう、サンドラは息を止めた。
「ほら、もう寝室です」
 セクトはまるで子どもをあやすような口調で、寝室の扉を示しながら微笑んだ。彼の微笑みは、いつもすぐに顔から去っていく。
「ひめさま、すぐにお休みくださいね」
 片方の扉を開きながら、サンドラは姫の侍女のままだった。
「今夜は、お部屋にご一緒できないそうですから」
言いかけて、語尾が震えた。
 王が王妃の肩を抱き、セクトの開いた扉の側から部屋に入った。大きく半円を描く新王妃の頭ががくりと揺れ、王の腕とともに部屋の中へと吸い込まれていく。
 片方の扉はなんとももったいぶりながらゆっくりと、片方の扉は震える白い手で閉じられた。

 部屋に入るとすぐに、エイトレスはマルガリータをベッドの縁に座らせた。扉のそばにいったん戻ると、重いマントを脱ぎ
「案内、どうもありがとう」
 妻の言葉に夫は振り向いた。
「もう、自分の部屋に帰っていいぞ」
 マルガリータの舌は呂律が回っていない。
「何を言っている。ここが朕の部屋だ」
 エイトレスはマントをそのまま床に落とすと、妻の前に立った。
「なんだ」
 マルガリータの頭はゆっくりと左右に揺れていたが、本人はそのことに気がついていないようだった。
「ここはオマエの部屋か。つい間違ってしまった」
エイトレスはマルガリータの肩を押しやり、ベッドに横にさせた。妻の口調に少し、苛立ちがあった。
「すまない。私の部屋はどこだ?」
「ここはお前の部屋だ」
「ここはオマエの部屋だろう」
「…二人の部屋だ」
「相部屋か」
ぴくり、と王の動きが止まった。
「この城はスミスの何倍もあるのに。つまり、住んでいる者も多いのだな」
肩を押していた手は、そのまま移動し、ゆっくりとマルガリータの顎を持ち上げた。
「何が言いたい? どうして欲しい?」
苛立ちを感じさせながらも、甘く淫靡な囁きだった。
「今日は長ったらしい儀式で疲れた、明日に備えて眠らねばな」
 マルガリータがため息と一緒に呟いた。焦点の定まっていない瞳は、エイトレスをとらえているのかどうか、わからなかった。
「今夜は初夜だぞ」
エイトレスは、自分の言葉に一瞬ぎくりとしたが、そうとしか言いようがないので訂正せずじっと黙った。
「うむ、初夜だから、サンドラと同じ部屋で眠れないそうだ」
マルガリータの見当違いな言葉に、エイトレスはもう一度ぎくりとした。
「お前」
顎を持ち上げていた手は、さっと引き上げられた。
「お前、今夜お前がどうすべきか、わかっていないのか?」
エイトレスの声に淫靡さは無くなっていた。 マルガリータの眉間に皺が寄った。
「なんだ、まだ何か儀式があるのか?」
マルガリータの呟きは、彼女以外にはむにゃむにゃとしか聞こえなかった。
「お前は何故朕の后となったのか、わからないのか?」
「オマエが父上に私を寄越せと言ったのではないか」
「世継ぎを残すためだ」
「子どもをつくるためだな」
マルガリータの言葉に、エイトレスはほっとした。
「そうだ。お前は今夜は疲れているかもしれないが、今夜は初夜なのだから……」
「良い夫婦になろうではないかエイトレス」
 マルガリータの焦点がエイトレスを捉え、彼女は微笑んだ。
「良い夫婦のもとに、神は子どもを授けてくださるのだぞ」
「どっ……」
 エイトレスは抜けそうな腰を、必死で支えていた。
「ど、どう……どうやって?」
その問いの間抜けさには気づいていた。
「父上は、金色をした鳥が運んでくるのだと言っていたぞ」
 マルガリータの笑顔を見たくなくて、エイトレスは目を閉じ、そして
 サラザウダの名を絶叫した。

「まことに残念ながら、陛下」
 寝室の扉の前で、頭を抱える王に公爵は報告した。
「王妃殿下は、まだ月のものもはじまっていらっしゃらないようで」
「月のものも?」
 両手で頭を抱えたまま、王は公爵を一瞥もせずに聞き返した。
「はい、サンドラ殿の話では……」
「あれはもう十七だぞ」
「陛下、月のものがはじまる歳には個人差が御座います。十七でまだという女子もおらぬわけでは御座いません」
王は応えなかった。
「ですので月のものが始まるまでは、お世継ぎは」
「ああ」
 一瞬、二人の間に思い沈黙が訪れた。
「それよりも……、問題は……、あれは子作りを……」
 その沈黙を、エイトレスがぶつぶつと破った。サラザウダはさっと青ざめたが、もともと青ざめていたために、その顔色はまるで死人のようになった。
「陛下、スミスではそのような教育がなされておらぬようで、サンドラ殿も、その」
重くはない、沈黙が流れた。
ゆっくりと瞬きすると、エイトレスは王としての威厳を取り戻そうとした。
「まあ、良い。どちらにしろ、あれに月のものが始まるまで、世継ぎはつくれぬ」
 王は震えるサラザウダを残して、寝室へと戻っていった。
 サラザウダは、長い廊下でただひとり、王国の安泰だけを願っていた。

 エイトレスが部屋に戻ると、マルガリータはさっきの体勢のまま眠ってしまっていた。
 しばらくじっとマルガリータの寝顔を見ていたが、泥だらけのドレスのままであることに気づくと、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
 ドレスを脱がせると、真っ白な下着姿のマルガリータは、翼を忘れた天使のように見えた。
 エイトレスは彼女をさっと抱き上げると、掛けぶとんに押し込んだ。
 ふんわりとした重さに、マルガリータはゆっくりと意識を取り戻した。少しだけ開けた瞳で、エイトレスが自分と同じふとんにもぐりこんでいるのを見つめていた。
「ベッドも共用なのか」
彼女の口調は、お前も苦労しているんだな、と言わんばかりであった。
「そうだな」
 エイトレスの口調はもう、淫靡でもなんでもなかった。
「お前は、まだ子どもだからな」
エイトレスの言葉に、マルガリータは何も言い返さなかった。
「だから一緒に、寝てやるよ」

<2>
 エイトレス城の中庭の花壇は荒れ放題だった。一日に二度、見回りの兵士が交代で水をやる決まりだったが、兵士は美しい花よりも如雨露を持たず身軽に見回りをすることを重要視する者が多かったし、何よりほとんどの兵士が「自分一人くらい水をやらなくても大丈夫さ」とか、「雨だって降るし、花なんて勝手に育つさ」と考えていたためだ。
「確かに、これはいかんな」
は花と緑に囲まれた城で育ったスミス王女が花壇の前で腹を立てていた。
「でしょう、でしょう」
花壇のことを密告した侍女は頷いた。
「ねえひめさま、このお城にはお花を育てる方がいらっしゃらないんだと思います」
自慢気に言うが、主の「そんなの見りゃわかる」という表情にぎくりとしながらサンドラは勇気を持って続けた。
「ちょうどいい大きさだし、花壇はここにしかありませんし、二人でお花を育てましょうよ、ひめさま」
 提案するのは、いつもサンドラだ。
マルガリータはいつだってノーではないが、イエスでも無いというような返事をする。
「ううん、でも城のことだからな、エイトレスに訊いてみんとなあ」
サンドラはいつだってその返事をイエスだと受け取って大喜びする。
「では王さまが許してくださったら、早速取り掛かりましょう!」
そしてその大はしゃぎっぷりに、マルガリータはいつだって付き合ってしまうことになるのだ。
「ああほらえっと、土いじりをする服を用意せんと、なあ」
「作って頂きましょうよ」
サンドラはくるくる踊りだしてさえいた。
「サラザウダさまが、必要なものがあればなんなりと、って仰っていましたもの」
そして突然、マルガリータに抱きついた。
「姫さまも前にお洋服をつくられてから大きくなられましたから、色々と測って頂く良い機会です」
服の中に手を入れ、くすぐってみせる。いつも通りのおふざけに、マルガリータもきゃっきゃと笑う。反撃し、サンドラの服の中に手を入れれば、対戦相手は体全体をくねらせて逃げようとする。右半身を相手に向けまいとすれば左半身をくすぐられ、脇の下から脇腹に狙いを移せばぴょんと跳ねて逃げられる。ひとしきり揉み合い、笑い合ったあと、侍女はくすぐったい余韻を惜しみながら言った。
「そろそろお部屋に戻りましょう」
マルガリータは、もうどこもくすぐったくないのに、まだ笑いながら言った。
「ああ、でもその前にサラザウダの部屋へ行こう」
「そうでしたわ」
侍女は王女の乱れたドレスを直しながら頷いた。襟を引っ張り上げ、リボンを結び直し、レースの土を払い、そしてスカートにある小さなシミに気づいた。

 マルガリータさまが死んでしまう。
 取り乱した侍女に引っ張られ、サラザウダは彼女の主の部屋と急いだ。部屋では怪我人がきょとんとしながらベッドに座っていた。
 侍女が乱発する単語を整理したところ、この怪我人は「ずっと血を流して」おり、「傷口はよくわからず」「どこでケガをしたのかもわからない」が、「姫さまは痛がってはいない」が「とにかく血が止まらない」ということだった。
「サンドラ殿、少し、王妃とふたりきりにして頂けますかな」
 部屋から追い出された侍女は、泣きそうになりながら……正確には、堪えているつもりの涙を廊下にこぼしながら、独断で王を呼びに走った。

 部屋からそろそろと出てきたマルガリータは、泣きながら抱きついてくるサンドラの頭を撫でながら言葉を選んでいた。
マルガリータの後ろからそそくさと出てきたサラザウダは、怪訝な顔をして廊下に立っている王に跪いた。
「陛下、おめでとうございます」
王にはこの一言で充分だった。少しだけ顎を動かして寵臣に答えると、くるりと玉座へと帰っていく。
 わけがわからないのはサンドラだった。瞳に涙を溜めたまま、きょとんとエイトレスの背中を見つめ、サラザウダの横顔を見つめ、そして主の顔を見つめた。
「なんだか私もよくわからないのだがな、サンドラ」
マルガリータは眉間に皺を寄せながら侍女に教えてやった。
「私は大人になったらしい」
「は、はあ」
大人になると股から血が出るのだろか。サンドラは首を傾げたまま沈黙してしまった。
「ああ、ええと、女性は大人になるときにこのような……ですからこれはお怪我ではありませんので、サンドラ殿」
サラザウダが王妃にしたのと同じように、侍女にも優しく説明した。首を傾げたまま、サンドラは王妃と同じことを言った。
「大人になるのって、あっけないものなのですねえ」

 その夜、寝室の扉の前で、エイトレスは些か胸を高鳴らせていた。いや、今夜胸を高鳴らせたところで何もできないのはわかっていたが、それでも胸は高鳴っていた。
ゆっくりと、扉を開けた。
眠っていたのは、大人になったばかりの……少女だった。
「お前は、朕が帰るまで待たぬのか」
小言さえ、熱い吐息に掻き消された。
 布団への侵入者の気配を察知したマルガリータは、瞼に気怠さを貼りつけながらも状況を確認しようとした。
「起こしたか」
夫の言葉に、妻はむくりと起き上がると、しばらくぼんやりした後、
「そうだ、ここはお前の部屋だったな」
とつぶやくと、枕を抱えてベッドから降りてしまった。
夫は驚いて体を起こし、妻が何をするのかじっと見ていたが、どうも彼女が部屋から出ようとしているのだと判明した瞬間、
「どこへ行く」
できるだけ動揺を悟られないよう、低い声で問いただした。
「サンドラの部屋だ」
妻は当然だとでも言いたげに答えると、さっさと扉を開け……ようとするが、寝ぼけているのか、押してみたり引いてみたりともたついている。夫は数秒、妻の返答について考えたが、答えが出そうもないことを悟ると質問の方向を変えてみることにした。
「お前は今日大人になったのだろう?」
しかし、向いてみた方向は自分でもなんだかよくわからなかった。
「ああ」
マルガリータはようやく、この扉は取手をやや引きながら押してみれば良いのだということを発見した。
「私は今日から大人だからな」
彼女はふわりと振り返ると、エイトレスに向かって微笑んでみせた。
「だから、添い寝はもういいぞ」
扉が閉まる音は、なんとも軽快だった。

 

 

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DeepGunzというページで一時期公開頂いていたのですが

そちらの移転に伴い、非公開となったので、こちらで公開しています。

梅雨の夜

 私と現実との間には隙間がある。真空の隙間だ。
現実に触れようとすれば、気圧差に耐えられずに皮膚が裂け肉が吹き飛ぶ。

この隙間に気づいたのは、ごく最近だ。

恐怖は朝と言わず昼と言わず腹の中心からにじみだす。
脳は後頭部から細く伸び上顎に重心を残し喉の中央で鼓動する。
心臓はみぞおちで震え腸の中の排泄物を揺らす。
ぞわぞわと皮膚の上の空気が揺れる。空気は重くなり太陽だけがいやに白く輝く。

 夜に出会う恐怖にはまだ、朝という希望がある。孤独から漏れだした恐怖には誰かとい
う救いを持てる。1日のうちには救いの要素のない時間のほうが長い。

「美香」
彼女と接する時間だけはトンネルの中だ。現実は卵型のアスファルトの外でとぐろをまい
ていて、そしてトンネルはいずれ終わる。
「聞いてるの」
「なあに、先生」
先生、というその言葉はこの空間では嫌みでしかない。けれど、嫌みを楽しむその行為は
恐怖から最も遠い気がした。
「…コンビニあったら寄って」
 不安と恐怖は酷似しているが同一ではない。不安はただ渦を巻く。渦を巻いて停滞して
いる。それはもしかするといつまでもそこにあるのかもしれない。けれど、常にあるので
はないのだ。便秘のようなものだ、そこには確かにあり、私を苦しめ、つきまとうけれど
…解放される瞬間だってある。
「メイク落とし? 貸すのに」
黄色から赤になる瞬間の信号機の下を、私たちは加速して通り抜けた。彼女が小さな悲鳴
をあげた。

 遅くまでやっているファミレスは、乾燥している。目を背けて通り過ぎなければ。
 ふと、目の前に差し出された白い指を握った。あまりに当たり前のことだった。彼女の
笑い声は鳥のいない空に響いた。
 彼女は現実に触れられるのだろうか?
「ねえ」
手のひらの中の指は溶けてしまいそうだった。

私は彼女の言葉だけをじっと待った。

楽園の羊

 ただただ広い草原に、2匹の羊が寝転んでおりました。
羊のだらけぷりと言ったらもう、脳が溶けているのかと思うほどでした。2匹とも毛皮さ
え脱ぎ、片方は腹を、片方は背中を地面にどろつかせ、太陽や土を見るだけでぼおっとし
ておりました。脱ぎ散らかした毛皮は羊たちのそばで風にそよぎ、むんとあの獣独特の臭
いを放っておりました。
「あー、あー、もー、だあるい」
太陽を見ている羊が、地面を見ている羊の背中を拳でたたきながら言いました。いえ、
言ったというよりも、ただ考えていることがだらしなく口から漏れただけでした。羊たち
をよく見ると、太もものところにそれぞれ「218」と「32689」と焼き印がありますので、
この物語では彼らをその番号で呼ぶことにいたしましょう。

『ひつじがいっぴき…ひつじがにひき…』

 どこからか、子供の声が聞こえました。その声は、まるで世界じゅうに響いているかの
ようでした。ひつじが数えられているというのに、この2匹はぴくりともしませんでした。
「あ、やべ、涎でてた」
218が、地面に落ちそうな涎をのたのたとぬぐいながら言いました。
「あーあー、もうう、まぶしい」
32689は、また218の背中をたたきました。3度たたかれている間に、218はようやっと自分
の涎をぬぐったのでした。
「なんかさあ、こう、やんないの、誰か。おもしろいこと」
ぬぐった涎でべたべたになった手の甲を、そばにある毛皮になすりつけながら218がぼや
きました。32689は自分の毛皮に涎をつけられているのを見ながら、ああともううとも区
別のつかない相槌をうちました。

『ひつじがにじゅうにひき…ひつじがにじゅうさんびき…』

「どういうことよ」
32689が、また218の背中をたたきながら聞きました。
「おもしろいことって、具体的に何」
「言ったらやってくれんの」
218が体の向きを変えて、32689の顔を見上げました。
「だるいからやんない」
32689の答えに、218はわざとらしくもある溜息をついて、もとの格好に戻りました。
「おもしろくなああい」

『ひつじがななじゅうろっぴき…ひつじがななじゅうななひき…』

太陽は、ちっとも動かずに輝いていました。そよ風が、いつもと同じ方向から吹いていま
した。ここはずっと昔から、ずっと未来まで、このままなのでした。
「こんなはずじゃなかったよなあ」
消えいるような声で、どちらかが呟きました。そしてどちらも、聞こえないふりをしてい
ました。

『ひつじがきゅうじゅうきゅうひき…ひつじがひゃっぴき…』

 32689が、空を見上げて、感心したように言いました。
「お、頑張るなあこの子」
それは、はじめてこの世界じゅうに響く声に向けられた関心でした。
「おまえ呼ばれるかもよ」
32689が、にやにやしながら218を見下ろしました。
「そんなわけないだろ、途中で寝ちゃうよ」
218は、少しだけむっとしたようでした。

『ひつじがひゃくにじゅうよんひき…ひつじがひゃくにじゅうごひき…』

 218が、いつものように草をむしり始めました。どれだけむしったって、この草原の景
色はちっとも変わらないのでした。
「おまえそれやめろよ」
32689が、218を見ずに顎をあげながら言いました。
「むかつくから」
「でも暇だし」
218はむしるのをやめません。
「ああ、もう、やめろってそれ」
32689が頭を降りながら言いました。218の背中をいつもより強くたたきますが、218はむ
しるのをやめません。
「あんさ、ヒツジーランドとかどうよ」
ひとしきり背中をたたかれた後、218はやっと手を止めて言いました。
「何」
32689はうっとおしそうに答えます。
「ここに。できんの。ヒツジーランド」
「夢と魔法の国?」
「そう…夢と魔法…と」
218はぱくぱくと口だけ動かして、32689に最後のテーマを伝えました。そうして、二匹で
げらげらと笑いました。

『ひつじがひゃくきゅうじゅうにひき…ひつじがひゃくきゅうじゅうさんびき…』

 少し前から、218と32689は固まったままでした。彼らがここに眠る前に数えられるため
の羊としてやってきてから、こんなことは初めてだったのです。32689は、ついに友人が
呼ばれるのではないかという期待に、218ももちろんその期待と、そして不安に胸を高鳴
らせていました。
「よ、よば、俺呼ばれる、かも」
218が目玉をぎょろぎょろさせながら言いました。
「とりあえず毛皮、毛皮着ろ」
32689も、ぎょろぎょろさせました。
もたもたと立ち上がる友人に、32689は毛皮を投げつけながら急かします。
「ほら着ろ着ろ着ろ着ろほらほらほらほら」
「う、うん着てる着てる」

『ひつじがにひゃくにひき…ひつじがにひゃくさんびき…』

どきどきという音が、胸を破ってしまいそうでした。慌てるばかりで、毛皮から218の頭
がなかなか出てきません。32689も立ち上がってぐるぐると同じところを歩いたり、突然
座り込んだりしていました。
毛皮をきちんと着た218が、数えられるために走り出そうとした、そのときでした。

『ひつじがににゃくじゅうい…』

 誰かの声は、煙のように消えてしまいました。沈黙だけが世界じゅうに鳴り響き、そよ
風が草をなびかせました。32689はへたりと座り込み、218は着ていることが耐えられない
と言わんばかりに毛皮を脱ぎ捨てました。
「結局、な」
またうつぶせになりながら、218が言いました。
「糞っ」
32689は、218の投げ捨てた毛皮をまだぼおっと見ていました。
「218なんか呼ばれねえよ、こんなとこまで数える奴いねえよ」
「俺なんかもっと呼ばれねえよ」
32689も、また草原に寝転がりました。
「こんなはずじゃなかったのにな」
どちらかが、また言いました。空から、また別の誰かが羊を数え出す声が聞こえました。
「…こんなはずだったのかもな」

もしかすると今度こそ、218は呼ばれるのかもしれません。
ひょっとしたら、32689だって。
そよかぜは、青空に浮かぶ雲をゆっくりと動かしていました。
雲は、ここにいる裸の羊たちより、もっとずっと羊らしく白くもこもことしていました。