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最初の一杯

 確かに社長の言ったことは本当だった。
 僕は今、社長室にいた。もちろん前の会社の社長室ではなくて…いや、今も給料を貰っているから、前の会社というのはおかしい。今の会社…というのも変だ。僕は表向きクビになったのだから。
 つまり、僕は前の会社をクビになったことになっていて、他の会社にスパイをすることを条件に、無職ながら給料を貰っている。なんとも表現しづらいけれど、とにかくそんな状態で…首になってから一週間もしないうちに、とある会社から電話がきた。僕を雇いたい、と。
そして僕は今日、新しい会社の…いやそれも変な言い方だ…スパイ先の…うん、スパイ先の会社の社長室に招かれたのだ。
社長は僕が会社を辞めたとなったらすぐに声がかかるはず、と言っていた。きっとこの会社がスパイ先ということで良いのだろう。
 この社長室は、びっくりするほど前の会社…つまりスパイ元の会社と同じだった。部屋の一番奥には社長用の机が置かれてあり、その前に来客用のソファセット。壁を埋め尽くす本棚。部屋には窓がない。
社長室というのはどこもこんなレイアウトだと決まっているのだろうか。
突然、ドアが開いた。僕をここまで案内した女性が顔を覗かせる。まるで僕がここに座っているか確認するように。
「お待たせして」
すみません、とは言わずに言葉を切った。
「今社長が戻りましたから、すぐ来ます」
僕は頷くことしかできない。
「なに? もう来てるの?」
扉の向こうから女性…というよりも、少女のような声がする。
「やだ。待たせちゃってるの?」
どたどたという音と、少女の声が近づいてくる。案内の女性が振り返ったところをくぐり抜けて、声の主が部屋に入ってきた。
僕は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
僕よりも少し年下だろうか。若い女性…少女から女性になりたてといった感じだ。茶色い瞳はまだくりくりしているし、同じ色のまとめ髪からは癖毛がこぼれ落ちていた。
彼女は足早に部屋に入ると、僕に名刺を差し出した。
「あなたね。兄の会社で働いてたっていう事務員は」
混乱気味の僕は名刺を読む…彼女がスパイ元会社社長の妹だ。
「しかも5年も働いていたんですって?」
社長席の椅子に座った彼女は、ゆっくりと足を組んだ。
「5年も!」
大満足と言った感じで笑う彼女をよそに、案内の女性がお茶を持ってくる。
「ああ、彼女ね、私の秘書。」
僕と秘書は目を合わせ会釈する。
「でね、ぜひあなたをうちに雇いたいの」
どうも話が急なのはこの兄妹の性質らしい。
「だって5年よ。うちの業界はそんなに続く人いないのよ。兄さんの会社にだって5年も働いた人、ほかにいないんじゃないかしら」
案内の女性はお茶を置いても部屋から出ていかず、盆を持ったまま出口の近くに立った。
「でも僕は事務でしたし…」
僕は小さい声で切り出した。大変なことになった、と心のなかで繰り返していた。
「それに僕は…」
「ねっ」
女社長は身を乗り出す。
「立ってないで座りなさいよ」
そして座る僕に追い打ちをかける。「給料は前と同じでいい?」
僕は何から答えていいのかわからず狼狽える。
「社長」
秘書が盆を指先で弄びながら窘めた。
「そう、給料だけじゃないわ。ほかもね、前と全く同じにするから」
しかし女社長は止まらない。
「なんでもね。おんなじにするわ」
社長の合図で、秘書が僕に一枚の写真を差し出した。受け取って見つめる…これは、僕が前に働いていた部屋だ…いや、厳密には少し違う。それよりも少し、なんだろう、なにかが違う。
「合ってる?」
首を傾げる僕に、秘書が補足する。
「あなたが以前働いていた部屋と違いはないですか?」
なんだか、と言いかけて淀む僕に
「色々と伝手をたどって再現してみたのですが…」
秘書の言葉に、僕はようやく違和感の正体に気づく。
「ポットが古いです。ここにあるのは黒いポットですが、最近白いやつに買い替えて…」
ん?
「再現?」
「そうよ。全部兄さんと同じにしたいの」
ぜんぶよ。女社長は強調した。
「あなたの給料も、部屋も、仕事内容もね。どんなふうに仕事をしていたか、あとでそこのに詳しく教えてやってちょうだい」
そこの、と言われて秘書は斜めに頷いた。
「で、いつから入社できるのかしら? 今日からでも良いけど」

 案内された部屋は、以前働いていた部屋とほとんど同じだった。湯沸かしポットが、故障させる以前の古いモデルなだけだ。
「ポットはすぐに買い替えます」
そんな構いません、と言いかけた僕を、秘書は目で制した。
「全て同じにするようにというのが、社長命令ですから」
そうだ。僕の意志は関係ない。
 僕はぐるりと部屋を見渡した。妙な気分だ。全く同じだ。
「さて」
なんとも表現し難い感慨に浸っている僕に、秘書が切り出した。
「早速ですが、いくつか書類のサンプルを持ってこさせますので、以前どのように書類を扱っていたかお聞かせ願えますか。書類の形式も統一させますので」

背中の毛穴から、じわり、と汗が滲み出た。

 そうだ、僕は重大な秘密を抱えてここに立っている。重大なふたつの秘密を。
「上着を脱いでも良いですか」
声が震えないよう腹の底に力を入れながら、僕は聞いた。
「いつも仕事を始める前に…上着を脱いで、椅子の背もたれにかけていたんです」
秘書はええ、構いませんよと頷いた。
「以前と同じようになさってください」
「それから」
相手の言葉が終わる前に、僕は慌てて付け加えた。
「お茶を。飲ませてください。いつもそうしていたので」
手のひらに汗を感じた。
「どうぞ」
秘書はもう僕を見てすらいなかった。
「いつものようになさってください。書類を持ってこさせます」
形式的に会釈すると、そう言って部屋から出ていった。
 二の腕に鳥肌がたったのがわかった。
 とにかく、お茶を入れよう。
まずは一杯。そうして、とにかく落ち着こう。

魔王討伐隊

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
それは、私たちにとって、最低の結末でした。
「おはようございます!!」
 今日も扉の向こうで、無理に明るさを振り絞った声が聞こえてきます…私はうんざりした気持ちと、そして何か、うまく表現できない複雑な気持ちとともに、1日の始まりをひしひしと実感します。
 今日も私は、その挨拶に何も返しませんでした。毛布から顔を出しはしましたが、その様子を扉の向こうで知る術はありません。
「今日も、良い天気ですよ。北門の花園がとても綺麗な花を咲かせています、良いにおいがお部屋まで届いていませんか?」
ふふ、と私は笑いましたが、それは悲しさからでした。世界は、平和になってしまったのです。私たちの希望を叶えることなく。
 魔王を倒すため、東西南北それぞれの果てにある4つの塔の封印を解かねばならないと知ったあの日…”なぜそうしなければならないのか”まで、私たちは知ろうともしませんでした。そうしなければ魔王を傷つけることすらできないらしい…”なぜ”? 魔王を倒すという目的に、私たちは盲進しすぎました。
「あ、あの…」
扉の向こうの言葉が、ふと止まりました。旅から帰ってきて以来、部屋から一歩も出ない私に、毎日…それがたとえ、とりつくろった明るさであっても…欠かさず話し掛けてきてくれたあの声が、これほど沈んでしまったのは初めてのことでした。
 明日から、声をかけてくれないかもしれない…長すぎるほどの沈黙に、私の心はちくりと痛みました。
「みんなどうしているんでしょう」
ふとこぼした言葉に、きっと答えてくれる者はいないでしょう。私たちは…命をかけて旅をしていたのではなく、正確に言うなら…人生を捨てて旅をしていたのでした。そうして、世界各地に散らばり、人々の生活に諦めとともに溶け込み、絶大な力を持ち、けれども誰もかもに消滅を期待されている…そんなものに立ち向かっていたので した。
「勇者さまは…」
 私は毛布にくるまると、眠ろうと努力しました。もう、目覚めることなど無いように。

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
…クソが。
魔物のいない草原に、俺は唾を吐いた。
 あいつは、不治の病だったらしい。
嘘だろ? 何百年も生きてたあいつが、だぜ。
俺のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんの時代からいたっていうあいつが、実はもうあと数日も残されていない命を、自分の時間を止めることで維持していた、だ?
 俺たちは塔の封印を解いた。…魔王は死んだ。自滅した。
そんなわけあるかよ。みんなはそう信じてるけど、そんなわけないだろ?
 みんな騙されてる。あいつはそういう奴だ。俺たちをやりすごそうって魂胆だ。
そうだ…俺たちは強くなったからな。ダンジョンに入り浸ってレベルを上げ、クエストをこなして小銭を稼ぎ、地図に無い島で強い装備を手に入れて…
 ぜんぶ、あいつを倒すためだった。この手で倒すためだった。いまさら逃がすわけにはいかない。
なのに何だ、俺が魔王を探そうって言っても、ついてくるやつはいなかった。
 僧侶のやつ、生まれ故郷を燃やされた恨みはどうしたんだ?
 魔法使いのやつ、魔王を倒さなきゃ世界最強なんて名乗れねえぞ。
 なにより、勇者のやつ…
「あいつ、どうしてんのかな…」
これは、弱音じゃない。あいつがついてこなくたって、俺は正しい。
絶対、見つけてやる。この手で倒すまで、終わるもんか。

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
「めでたしめでたし、ってわけね」
鼻で笑ってから、最近独り言が多くなったことに気づいた。独りだから、仕方ないんだけど…でもこれからは、もう少し、ミステリアスになったほうがいい。
 パーティのなかで唯一の女だった私は、それ故の苦労もたくさんあった。でも、魔王を倒すっていう目標の前には、そんなことなんでもなかった。…ううん、耐えてた。
一番嫌だったことは…何日もお風呂に入れなかったことでも、お洒落な格好ができなかったことでも、自分の体調に…それが女性特有のものでも…そんなの関係無く頑張らないといけなかったことでもない。装備を経血まみれにしても、無駄毛がそのままでも、3人はいつもと変わらず接してくれたし、私だってそんなものにかまっ ている余裕はなかった。一番嫌だったのは、パーティの誰と”デキているのか”を勘ぐる村人たちの視線だった。
 自分が泣いていることに気づいて、あわてて裾で涙をぬぐった。まったく、涙もろくなったものね。毎日、思い出しては泣いている。私はこんなにも弱かっただろうか。
 足元をじっくり見る。素材は最高のものを揃えた。私の涙なんて、そんな不純物を混ぜるわけにはいかない。私たちが立ち向かっていたものは、純粋に強大だったんだから。
 私たち4人がお互いに抱いている感情は、家族に対する愛情と良く似ていて、それよりももっと深いものだった。出会って数時間の人と死をともにする覚悟、同じ目標、命がけの旅…私は、もう女なんかじゃなかった。それでよかった。
 実質的に魔王を倒した私たちは、一応称えられはした。でも、村人たちの視線や態度は、心からそうしてくれているわけではないことを感じさせた。倒せるわけが無いという目をしていたくせに、今度はおまえたちが倒したわけじゃないじゃないか、という目になった。私たちは称えられるために旅をしていたわけではないけれど …でも。
 …時間だ。この時を逃すわけにはいかない。素材と同じく、時間も最高のものでなければ。
呪文を唱えながら、みんなのことを思い出していた。魔王になった私に、一番最初にたどり着くのはやっぱり格闘家だろうか。魔王を探すって言ってたもんねえ。でもわたしとしては、3人揃って来てほしいな。
「魔王は勇者に倒されないとね」
この独り言だけは声に出さず、唇の端だけに留めることができた。

記事の修正

「第二の人生」の誤字と

「バス停」のフォントがほかの記事と違っていたので修正しました。

第二の人生

人間は間違った選択をするものだ。
僕は友人の孝介を尊敬している。
孝介は模範的な児童であったし、生徒であったし、学生だったと思う。
成績はぶっちぎりというわけではなかったが、まあ優秀なほうであったし、何より教師の
覚えが良かった。地味ではあったが、目立たない学生では無かった。少なくとも僕は古く
からの友人として、彼の人生に信頼を置いていた。
「しかしね」
串を振りながら語る孝介の姿は、煙のせいか少し遠く見えた。

僕は孝介の幼馴染ではあったけれど、孝介ほど優秀でもなければ、模範的でもなかった。とはいえある意味で、将来を約束はされていた。それは職人の家系に生まれた宿命であっ
た。

僕は仕事終わりに孝介に呼びだされ、焼き鳥屋にいた。
僕は自分のことを堅物だとは思わないが、しかし繁華街で飲むというのは実に久しぶりの
ことだった。ネクタイをはずしチューハイを煽る孝介の姿は、彼には似つかわしくないよ
うに感じた。
いやしかし、会社員というのはこういうものなのかもしれない。
「しかしね、雄大」
ああ、彼は何か僕に語りかけている。しかし周りの喧騒のせいで明瞭に聞き取ることはで
きなかった。彼も、僕の目ではなく、使用済みの串を仕舞う壺をじっと見ていた。
「僕はね」
僕もなんとなく、彼の見ている壺に目をやってみた。
「僕はもういい加減に、自分のことを騙せなくなってきたのだよ」
この言葉だけはやけにはっきり聞こえた。
はっとして、孝介の顔を見た。
彼は僕の目を見ていた。

目の前に置かれたジョッキには、烏龍茶が揺れていた。とはいえ中身の殆どは氷だ。
孝介のチューハイにはほとんど氷は残っていなかった。ただ、ひしゃげたレモンが貼り付
いていた。

「本気なのかい」
彼がこれまでに何を言っていたのかわかりもしないのに、僕は確認した。
彼の言葉ではなく、眼差しに確認をした。
「こんなところで話すことじゃないと思っているのだろう」
大きな口で彼は笑った。
「いやしかしね、これでも考えに考えたのだよ」
でもやっぱり君は飲まないのだね。
彼の視線は僕を離さない。僕は目の前のぼんじりに手をのばす。
ようやく、でもゆっくり、そして断片的に、彼の言葉が戻ってきた。
そうしてつなぎあわせた彼の言葉は、僕の胸を掻き乱していた。
「親父さんもご健在のうちにと思ってね」
「僕は反対だ」
急に僕が大きな声を出したので、孝介は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、すまない。不吉なことを言ったね」
違う。僕が反対したのは、今話しかけたことにではなく、戻ってきた彼の言葉にだった。
僕はそれを伝えるために、ジョッキを握って俯いた。
孝介が、例の壺に串をそっと刺した。
聞こえるはずのない、串が壺に刺さる音が、した気がした。
孝介は何か言いかけたようだけれど、僕をじっと見ると言葉を飲み込み、ハツに手を伸ば
した。
僕は孝介ではなく、孝介に齧られるハツをじっと見ていた。
戻ってきた言葉を、ようやく組み立てることができた。

孝介はジョッキを空にして、大声で烏龍茶を注文した。
僕のジョッキはまだ氷ばかりだ。

「あのね、僕の父はもう弟子をとっていないんだ」
きっと蚊の鳴くような声だったが、孝介には届いたようだ。
「そう、しかしまあ、頼むだけ頼んでみても良いだろうか」
彼は酒に強いのだろうか、それとも普通はチューハイ一杯では酔わないものなのだろうか。
僕などは鳥を焼く煙だけで、現実離れしたような気分になるというのに。
「どうだろうね、とらなくなって随分だから」
この言葉は流石に届かなかったらしく、彼は右耳を僕に見せて"もう一度"と催促した。
「最近は旅行にばかり夢中でね、現役の頃はできなかったことだから」
僕は彼の目を、見た。じっと睨んでいた。
彼も僕の目を見返してきたが、すぐに僕の言葉の意味に気づいた。

店員が、烏龍茶のジョッキを孝介の前に置いた。
彼は氷でいっぱいのジョッキを持ち上げた。
「いやあ、すまない。これは。大失敗だね」
鼻を掻く彼を見て、僕は今日初めて、彼をちゃんと見た気がした。
「しかし僕の決意は本物なんだ」
僕が笑ったのは彼にとって意外だったのだろう。心外だという表情だった。
「日を改めさせてくれよ。ねえ」
ああ、僕は笑っている。僕は厨房に戻ろうとする店員を呼び止めている。
「ねえ孝介。やはり僕も一杯頂くよ」
なんだい、今更。烏龍茶なんか頼んでしまったよ。
拗ねる孝介に、しかし僕は、彼は烏龍茶のジョッキの氷も溶かすべきだと思うのだった。

事件の報告

 夕日が窓から差し込んでいた。
こんなことしている暇なんかないのに。明らかに不服を顔に浮かべる部下を、警部は肘でつついた。
「そう」
警部を名指しで呼び出したくせに、この女の反応はなんだ。部下は不服顔を取り繕わなかった。半年前から連続して起きているこの殺人事件は、間違いなく今一番の話題だ。ちょっと金持ちだからって、捜査中の警部を呼び出して状況を報告させるなんて、明らかに常軌を逸した要求だった。
警部だってこんな女の言うことなんか聞かなきゃいいのに。
 窓から差し込んだ夕日は、部屋の沈黙と混ざり合って灰色になった。
「なかなか進展のある報告ができず、申し訳ございません」
重苦しい空気に耐えられなくなったのか、警部が頭を下げた。
「いえ、無理を言って色々と教えて頂いているのはこちらですから」
女主人は警部ではなく、その隣の部下の目を見ながら言った。
「捜査中お忙しいところ、本当にありがとう」
「もったいないお言葉で」
答えたのはもちろん警部だ。
 ここは女主人の屋敷だった。おそらくここは、あまり丁寧に対応しないでよい来客用の部屋なのだろう。女主人が座る椅子と小さな机、来客用のソファだけが置かれていた。警部と部下は、ソファには座らず立ったままだ。
「先週の事件でも、閣下にはお世話になりまして」
閣下はやめてちょうだい、などと女主人は言わなかった。
「閣下のご協力なしには捜査もままならない状況ですから」
「一連の事件全てが私の土地で起きていますものね」
女主人はふ、と笑った。
「私のことも疑っていらっしゃるでしょう」
「いえいえ、そんな」
わざとらしい相槌は部下のものだ。警部は小さな声で部下を叱りつける。
「申し訳ございません。本気になさらないでください」
「かまわないわ。当然のことよ」
部下にはその答えが虚勢に見える。その視線に警部が気づいたのか
「やめたまえ、そんな目をするのは…。閣下には不可能な犯行だろう」
そう言うと、女主人に微笑む。
「実は先週の現場では」
言いかけてはっと口を閉じる。
「女性に聞かせる話ではありませんな」
女主人はもう一度ふ、と笑う。今更でしょう、聞かせてちょうだい。
警部はしばらく戸惑っていたが、ふてくされる部下の顔を見ているうちに決心がついたらしい。
「そうですな…散々凄惨な現場についてご報告しているのですから」
そうつぶやくと、女主人の瞳をまっすぐに見て言った。
「実は先週の現場では、被害者の眼孔に性的暴行の痕があったのです」
どうも生々しい表現を避けたかったようだが、その試みは成功とは言い難い。
「眼孔」
女主人は一瞬考えて、自分のまぶたをおさえた。警部は頷く。
「犯人は男性の可能性が高いってこと?」
「男性器を持っていなければできない所業ですな」
警部は何故か胸を張った。
 女主人はくるりと窓の方を向いた。しばらく何か考えていたようだが、警部たちに背を向けたまま「そう」と言っただけだった。
 ノックの音がした。メイドが顔を覗かせ、紅茶をお持ちしましたと声をかけた。
いえ、もう用は済みましたから。
警部は女主人の背中に一礼すると、部下に帰るぞと声をかけた。
せっかく紅茶が入りましたのに、と引き止めるメイドを断り、せっかく紅茶入れてもらったんですから、と留まろうとする部下を制しながら、警部はそそくさと屋敷を出てしまった。
呆然と立つメイドに、女主人は声をかけた。
「紅茶、持ってきてちょうだい。あなた一緒に飲まない?」
彼女の瞳は夕日のせいで赤く見えた。

最後の一杯

 クビになった。
 いや、厳密にはクビにはなってない。
 とはいえ、クビになったとしか表現しようがない。
 僕は自分のデスクの前で立ち尽くしていた。もうどうしようもない。
 どうしろっていうんだ。

 ほんの一時間前、僕はいつもどおりに出社した。入社五年目。オフィスのドアを開けてからの動作は流れるように無駄がない。上着を脱ぎ、腕まくりしながらタイムカードを押し、上着を椅子の背もたれにかけながら着席する。湯沸かしポットの電源を入れたら、湯が湧くまでの間に今日一日でやるべきことを書き出す。お湯が湧いたらマグカップに注ぎ、引き出しからティーバッグを選ぶ…今日は緑茶にしよう。マグカップに放り込んだティーバッグが自分の役目を果たすまでの間に、やるべきことのリストに優先度をつけていた。
 事務所には誰もいない。僕はたった独りの事務員なのだ。とはいえサボったりはできない。サボっていては終わらない量の仕事があるのだ。
「今ちょっといい?」
女性の声がして、僕は振り返った。女性は事務所の中にずかずかと入り込んで僕の机を覗き込んでいた。僕がたった独りでもうかうかサボれない理由のもうひとつはこれで、この会社の人はノックもなしに事務所に入ってくるのだ。そして自分の好奇心のままに僕の机を遠慮なく覗き込む。
「大丈夫です。どうかしましたか」
とはいえ、事務所に人が来るのは稀だ。大抵僕は出社から退社まで誰にも会わない。月に何度か別部署の方が書類を届けにきたり引き取りにきたりすることがあるくらいだ。
この女性は…確か社長の秘書…だったと思う…のだが、たしか、入社時の面談で会ったきりだ。
「ちょっと社長からお話があってね。今大丈夫なら、社長室まで来てくれるかしら」
「はあ、社長」
僕はマグカップから取り出したティーバッグをティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。
「…社長?」
素っ頓狂な声が出る。
「えっ、はあ。なんの、いや、すぐに参ります」
「ええ、お願い。そのままでいいから」
慌てて腕まくりを戻す僕に、秘書の女性は微笑んだ。
「手ぶらで大丈夫よ。社長室、わかる?」

 社長室のドアを開けるなり、社長は僕の肩を抱いて大歓迎してくれた。社長と会うのも入社時以来なのに、パーソナルスペースの詰め方に僕は驚くことしかできない。
「いやいや、仕事中すまないね」
社長は僕を来客用と思われるソファに座らせた。ソファは二人用で、目の前に小さな机と、向かいには一人用のソファが置いてあった。その向こうには社長のデスクが書類で山積みになっていた。僕のデスクの2倍は大きい。部屋には窓がなく、向かいの壁も、左右の壁も本棚で埋め尽くされていた。社長室というよりは書斎のようだと僕は思った。
「いえ、あの、失礼します」
ソファに座ってから失礼しますもないものだが、そう言うしかない。
「実はちょっとお願いがあってね」
なんと社長は僕の隣に座り、肩と肩が触れるような距離で話しかけてくる。僕はパニックに陥り
「いや、あの、恐れ入りますが、その、大丈夫ですから」
なんと言ったらいいのかわからず、向かいにある一人用ソファに座って貰えないかと身振りで示す。
「うん、でも小さい声で喋りたいから、ここでね」
社長は更に僕に近づき、声のトーンを落とした。
 この距離になってしまうと、嫌でも社長の顔が視界に入ってくる。僕は人の顔を見るのが苦手だ。必死に目をそらそうとするが、社長はニコニコと僕の視界を追ってくる。
「あのね…」
僕の視線を捕らえたところで、社長は切り出した。
「きみ、うちに入ってもう五年になるんだってね…」
僕は「はい」と答えようとしたが声にならず、慌てて頷いた。
入社時から変わらず、社長は若々しい。いや、おそらく本当に若いのだろう。髪を金に染めた若者で、茶色い瞳はよく見ると緑がかって見える。照明の関係だろうか。
「実はね、うちの事務員でそんなに続いた人はいなくってね。だからそれってすごいことだよ」
肌は白い。青白いくらいだ。後ろに撫で付けた金髪とよく合っている。スーツはいかにも高級そうだが、残念ながら僕に知識がないので、本当に高級なものなのかはよくわからない。
「だからね、今日で君をクビにする」
眉と髪の生え際は地毛の色のままのだろう、黄味がかった茶色だった。ん? クビ?
「クビ。クビですか」
口に出してみて、ようやく意味を理解しかける。
「えっ、クビ? クビですって?」
パニックになりかけた僕の肩を、社長はがっしりと捕まえた。
「聞いて聞いて。最後まで聞いて」
指が肩に食い込む。
「は、はい。聞きます」
僕は反射で返事をする。
「とりあえずね、君をね、クビにします」
「クビ?」
「聞いて聞いて。それでね、君は無職になります」
おそらく今ボクはポカンとした顔をしている。
「クビ…つまりクビになるんですか、僕」
「なる」
パニックが押し寄せてくる。
「えっ、な、なぜ、いや、ごめんなさい。すみません。勘弁してください」
狼狽える僕の肩を捕まえたままの社長の手に、もう一度力が入る。
「大丈夫大丈夫。大丈夫だから聞いて聞いて」
「いや、大丈夫じゃないです。クビになるんだから大丈夫じゃないです」
「いや大丈夫だから。給料は払うから」
はっ?
僕の時が止まる。
「給料は変わらず払うから。毎月」
社長の視線が僕の瞳をもう一度捉える。
「まあその、申告できないお金にはなっちゃうけど。君は表向き無職ってことになるわけだから」
「おもてむき?」
僕の鸚鵡返しに、社長はニッコリ微笑む。
「うん。だからね、安心して。落ち着いて最後まで聞いて」
落ち着きはしたけれど、僕の頭の中は混乱したままだ。
「ええと…」
つまり僕はちっとも落ち着いていない。
社長は僕の肩を掴んでいた手のちからを緩める。
「たぶんクビにしてから一週間もしないうちに、転職のお誘いが来る。そこに転職してほしい」
僕にはもう相槌を返す気力がない。
「転職したら、新しい会社から給料が出るだろうけど、こっちからも変わらず給料を出すから。つまり収入は約二倍になるわけで、君にとっても悪い話じゃないはずだ」
ただ頷く。同意しているわけでも肯定しているわけでもなく、ただ頷く。
「それで…その会社で扱っている書類や、知り得た情報を、教えてほしいんだ」
しばらくの沈黙のあと、僕の中でようやく話がつながりはじめる。
「つまり、つまりそれって…」
「そう」
社長は僕の耳元に唇を寄せて囁いた。
「スパイだ」

 こうして僕はクビになった。
 いや、だから、厳密にはクビではないけれど、表向きクビになった。
事務所に戻ったときには、緑茶は冷めきっていた。僕はそれを一気に飲み干した。
僕は今後の方針について社長室で話し合った際、意見が割れて社長に暴言、そしてクビになったことになるらしい。私物をまとめなければ。マグカップのほかに何があったっけ?
 いや、そんなことよりも問題はほかにある。いや、しかし…問題がありすぎる。
しかし今抱えている問題は、リストにして優先度をつけることすら許されない。頭を整理するには時間が必要だ。
 僕は湯沸かしポットのスイッチを入れた。
もう一杯だけ。それくらい、許されるだろう。

姉妹の帰郷

 妹さんのほうは、それは美しい方でした。ご存知でしょう。
女、という言葉を、あの方以上に意識させる方はこの村にはいませんよ。ご自分でもそれをよくわかっておられる方でした。誰もが一度はあの方に…正直なところ、僕だってそうです。でも、怖いところもありました。うまく言えないのですが、自分に興味を示さない人を人間扱いしないようなところがあったのです。
 お姉さんのことはご存じですか。いえ、有名でしたから、きっとご存じでしょうね。そりゃあ、妹さんに比べれば、お顔立ちはあまり美しい方ではなかったかもしれません。けれどそんなことは問題にないくらい、聡明な方でした。小さなころから、頭の良い子でした。村を出て大学に行って、学者になったらしいと聞いたときなんか、ああやっぱりそうなったかと思いました。妹さんとは違う、不思議な魅力のある方でしたね。
 去年の暮れでしたでしょうか。村のはずれにある森が閉鎖されて、学者さんが来るって話は随分前からあったんですが…その学者さんてのがお姉さんのほうだって話でね。村じゃ大騒ぎでしたよ。ええ、そりゃあまあ、いろいろとすごい論文なんかを発表されていて、有名になってらっしゃったという噂だったもんですから。森の近くに引っ越されたときにやじ馬がでたくらいですよ。まあ、ああいう方なので、すぐに村の皆も静かになりましたけれどね。
 その後すぐですよ、今度は妹さんのほうが、村に帰ってくることが話題になったのは。いや、妹さんの話題のせいで、お姉さんへの話題が無くなったのかもしれません。とにかく、なんせ村を出ていくときには玉の輿だって話題になったくらいの人が、今度はお産で帰ってくるっていうんですから、皆興味津々でしたね。
 でも、妹さんのほうは、何もかも昔と変わってしまっていました。どの店も妹さんのために扉を開いて待っていたのに、妹さんは家に篭ったままでした。村のはずれの家でしたが、僕の家にまで、毎日のように妹さんの声が聞こえてきましたよ、お姉さんを罵っているのです…でも、お姉さんはいつもの時間に平気な顔して森へ出かけていくのです。
 最後にお姉さんに会ったのはきっと僕だと思います。研究は順調ですか、というようなことを聞きましたよ。彼女は、ただ小さくおかげさまでと答えただけでした。
 そのとき彼女は、妹さんはもう長く生きないだろうと言っていました。まるで、他人事のようでした。僕がなんて言ったのかもう覚えていませんが…妹さんはこれから母親になるのだから…とかなんとか…自分の言ったことはもう忘れましたが、そのときのお姉さんのキョトンとした顔は忘れていませんよ。
「妊娠? うちのが?」
そうして、ほんとうにぞっとするような声でお笑いになったのです。
 けれど、先に死んだのはお姉さんの方でした。自殺でした。
こんな村です。色々と噂になってもよさそうなものですが、…誰も彼女のことを話題にはしませんでした。
 でも、そうですか。妹さんもやはり自殺されたんですか。そうですか。
お姉さんの言う通りになったのだと思います。どうか、妹さんのことは盛大に弔って、折々で話題にしてあげてください。彼女はそういう方ですから、きっとあのとき妹さんの…いや、やめましょう。正直なところ、僕は、いや、きっと村じゅうの人間が、あの姉妹に振り回されるのはもううんざりだと感じているんですから。