ストック切れのため6月はおやすみします

文章のストックが切れてしまったので、少し書き溜める時間をとろうと思います

 

吸血鬼

 相変わらず汚いところだ、と雄太は思った。この部屋では太陽の光さえ黄色く埃っぽくなる。あらゆるところに積まれた紙束が、雄太が動くたび埃を舞いあげていた。
「蓮」
できるだけ空気を口から吸い込まないように気をつけながら雄太は呼んだ…「蓮!」
 ばさり、と部屋の奥で音がした。狭い部屋は、積まれた紙束のせいで迷路のようになっていた。扉を背中で支えながら立つ雄太から向かって正面と右側の壁には、埃と本でぎっちり詰まった本棚が壁を隠していた。蜘蛛の巣さえあった…いくつもの紙束が塔となり、部屋はその影で薄暗くなっていた。
「いないのか、蓮」
「いるさ、雄太…ええと…少し…待って」
紙束の塔の影に何かが動いているのが見えた。雄太がそちらに踏み出すと、背中に支えられていた扉が嫌な音を立てて閉まった。紙を踏みつけるのもかまわず、雄太はやや大股で3歩歩いた。
「今…うん、でも」
塔の向うにいた日に焼けた青年は、ほとんど裸と言ってよかった。雄太はそんなことよりも、また彼の髪が伸びていることにぎょっとして黙りこんだ。
「少し…今それらしい記事を…」
蓮はぶつぶつ呟きながら古い新聞を読んでいた。もっさりと覆い茂った髪の間から端正な顔立ちがのぞいた…雄太が望んでも手に入れられないものを、蓮はすべて持っていた。
「なあ、蓮ぼくは…」
「いるんだ、ねえ。やはりいるんだ」
雄太が口を開いたのと同時に、蓮がぱっと顔を上げてはっきりと言った。大きな声ではなかったが、凛と狭い部屋に響いた。
「で、おやじは何て?」
急に蓮が自分の心を読んだので、雄太は答えるのに一瞬かかった。
「榛名さまは、いいかげんそんな酔狂なことはやめろって…」
「酔狂なこと!」
蓮が手にしていた新聞を放り投げてゲラゲラと笑った。「確かに酔狂なことかもしれないさ、おやじにとっては」
ぱんぱんと剥き出しのふとももを叩くと、空気中に埃が舞い上がった。
「でもぼくにとってはそうじゃない」
「いい加減にしろよ、蓮」
雄太があぐらをかいた蓮をまたいで、捨てられた新聞を拾い上げた。目的の記事はすぐにわかった。
「本日未明、宗女川ニテ惨殺死体。血液全テ抜キトラレタリ…なあ蓮、本当にこれが妖怪の仕業だっていうのか? 妖怪なんてほんとにいると思ってるのか?」
「妖怪じゃない。吸血鬼さ」
新聞を投げつけても平然としている蓮に、雄太はしがみついた。
「なあ、蓮。ぼくの立場も考えてくれよ。ぼくだって君が好きなことをするのに反対なわけじゃないんだ。でもやりすぎだ。それに…ぼくが榛名さまには逆らえないのは君だってわかってるだろう」
「ああ、君には迷惑をかけているね、雄太」
それでもまだ平然としている蓮に、雄太は怒りで混乱さえしそうだった。
「ねえ雄太、ぼくはね、殺されたって何か分かるまでここにいるし、何か分かったらそこへ行くよ…」
「そこって?」
雄太の膝はもう埃だらけだった。頭の先からつま先まで流行ものを身につけた彼は、裸で垢と埃まみれの友人の美しさに昔から嫉妬していた。
「さあ、わからない」
蓮は友人の膝をじっと見つめながら言った。
「目途は立ってるんだけどね」
友人の膝に黒いすす汚れを見つけて、ニッと笑った。

 朝から榛名邸は大忙しだった。雄太も自分の仕事に手いっぱいで、自分の机に置かれた手紙に気づいたのは昼をすぎてからだった。
 ”来てくれ”
蓮の字だった。雄太はその字を見たとたん、忙しい自分にこんな呑気な手紙を寄こして来る友人に腹を立て、手の中のそれをくしゃくしゃと丸めるとそこらに投げ捨てた。しかし、ふと、ずっと部屋に引きこもっていた蓮がわざわざここへ来てこの手紙をここにおいたのだろうかと思い直し、自分が投げ捨てた手紙を拾い上げると広げ直した。
 やはり親友は自分を呼んでいた。
 雄太は机の上に広げていた帳簿に適当な紙をはさむと、急いで連の部屋に向かった。嫌な予感を振り払うように、部屋の扉をあけた。
「やあ」
そこにいたのは、地上で一番の美男子だった。昨日まであんなに伸びきっていた髭や髪は短く刈り込まれ、垢だらけだった体は太陽に輝いていた。蓮の装いは時代遅れだったが、その上等なシャツや、紐飾りのついたベストや、ゆるやかなズボンを足首で締め付けるブーツは彼によく似合っていた。
「やっと見つけたんだ。今から探して、会いに行く」
連はゆっくりと微笑むと、扉に向かって歩いてきた。
「な、なんだい」
雄太はまた背中で扉を支えながら親友を引きとめた。
「なんのことだい、この忙しいのに」
「忙しいのは田辺の息子が死んだからだろう」
蓮はカフスをとめながら言った。
「田辺はお得意だったものな」
雄太は自分が鉛筆を握ったままでいることにようやく気づいて、その手をポケットに突っ込んだ。
「知っているなら手伝ってくれよ、蓮。なにしろ…」
「田辺の息子はどうやって死んだか、知ってるかい」
雄太の嘆こうとするのを遮って、蓮はブーツの紐を結び始めた。
「血を抜かれて死んだのさ!」
ゲラゲラと笑う友人を、雄太は心底恐ろしく感じた。
「蓮、それ…」
「雄太、僕は榛名の息子だよ。田辺の様子を知るのなんて簡単なことさ」
雄太は連の言葉に納得したが、彼の笑顔にまだぞっとしていた。
「それでね雄太、僕は死体を見たんだ…奴は今夜また食事をとるだろう」
ふっと、蓮の顔から笑みが消えた。
「どうしてそんなことがわかるんだい」
「ぼくはずっとここで奴のことを調べていたもの」
言いながら、蓮は雄太の背中から扉を奪い取り、そのまま外へと出てしまった。
「ぼ、ぼくも行く」
雄太はポケットから手を出し鉛筆を投げ捨てると、あわてて友人の後を追った。

 蓮のいう”めじるし”を見つけた時には、もう深夜と言っていい時間になっていた。雄太と蓮は、誰かの屋敷の中庭がよく見える道端に座り込んでいた。蓮曰く、この”めじるし”のあるところに吸血鬼はやってくるのだそうだ。雄太は後悔を超え眠気に苛まれていた。
 音もない、夜だった。
 どんよりとした雲の間から、時折月が覗いていた。
 時間は、流れるのを忘れ暗闇の中で迷子になっていた。
 沈黙と眠気が、ゆっくりとあたりに充満していた。
蓮がぴくりと動いたので、雄太は中庭を見やった。質素な中庭だった。この屋敷が誰のものだったか思い出すのも面倒だった…屋敷から、少女が出てきた。あれが生き血をすする鬼なのだろうか? 雄太は帰りたいとはっきり思った。
 ふと、中庭に立つ女に気づいた。大女だった。なぜ今まであんな大きなものに気づかなかったのかと雄太は不思議に思った。
「いけない、逃げられてしまう」
言葉よりも早く、蓮が動いた。植えこみを乗り越え中庭に侵入した。びっくりしたが、雄太も慌てて後に続いた。
 少女が音に気づいてこちらを向いた。通夜のある黒髪が、月の光に輝いていた。
 中庭には、少女ひとりきりだった。  蓮は何かを言いかけた。けれど、唇は空を切るだけだった。  薄紫色の空が、輝き始めていた。膝を抱え一言もしゃべろうとしない友人の隣に、雄太はただ座っていた。  朝陽が、足元の草に影をつくり始めた。弱い風が頬を流れていた。 「まだ仕事が終わってないんだった」 雄太は蓮の肩に肩をぶつけ、立ち上がりながら言った。 「ぼく、帰るよ」 ああ、と蓮が答えたのが聞こえた気がした。見下ろした先の友人は、小さかった。 「ねえ蓮、おぼえてるかい。僕たちが子どもだったとき、一緒に家出をしたね」 ふと口をついてきた言葉は、きっとちぎれ雲のせいだった。 「あのときどこまで行ったか覚えてるかい…丸1日歩いたっけね」 蓮がゆっくりと顔をあげ、真っ赤になった目で雄太をじっと見つめた。 「あれ、大石神社だったんだよ。気づいていたかい。僕は使いでよくあの前を通るからね」 雄太はポケットの中に手を突っ込み、鉛筆が無いことにふと気づいた。 「あのときは、世界の果てにきたような気がしてた」  ポケットから手を出すと、鉛筆の削りカスだけが指の間からこぼれ出た。雄 太はくるりときびすを返すと、帰路をゆきはじめた。  1日が、始まろうとしていた。

店内雑感

 上着を持ってこなかったのは失敗だったと、思っているのだろう。
彼女は二の腕を擦る妹を見て見ぬふりするつもりだった。出かける直前まで、上着を持ったのか何度も聞いたのに。
「ねえ、ゆっちゃん…」
ところが妹の方から話しかけてきたので、反応しないわけにはいかなくなった。いや、聞こえていないふりをするという選択肢もあるのだが…いや、妹のことだ。反応するまで声をかけ続けるだろう。
「なんかここ、寒いね」
上着を持ってこいって、あれだけ言ったじゃない。
そんな言葉は無駄どころか、新たな問題を引き起こす可能性すらある。きっと彼女は、今自分がどこに座っているのかも忘れて立ち上がり…いや、立ち上がりはしないかもしれないが…ともかく、叫ぶか、ほとんど叫んでいるに近い大声でこういうだろう―
「そんなこと言ってなかった!」
あるいは
「こんなに寒いと思わなかった」とか「我慢できると思ったの!」
いや、会話だって成り立たないかもしれない。過去にはこんな例だってあった。
「なあに、私が悪いって言うの!?」
とにかく碌なことにはならない。妹の金切り声を現実にしてはならない。
 彼女は自分の上着を脱いで妹に差し出した。妹は顔中に不快感を浮かべる。
 なに、そんなの着ろっていうの?
「ああ…ありがと、でも悪いからいいよ」
抑揚のない声でつぶやくと
「さむうーい」
わざとらしく肩をすくめた。
 彼女も寒かったが、再び上着を着るわけにはいかなかった。ゆっちゃんだけ暖かくて良いよねー…妹の視線のほうが冷たい。
鞄の中に上着を押し込みながら、妹には聞こえないよう小さくため息をついた。
 いつもこうだ。
 
 いつもこうだ。
 あの姉妹はこの店の常連だが、姉が妹にこそこそと気を使うたびに溜息が出る。
たしかに、あの姉妹の妹のほうは---何度かこの店でも大暴れしたことがあるが---機嫌を損ねると大変だというのは事実だ。しかし、それにしてもあれでは言いなりではないか。あの姉妹を見るたびにやりきれなくなるというだけで、彼は一時期店を辞めることすら考えたことがあった。
 できるだけ小さく丸めた溜息を鼻から吐き出すと、彼はトーストされたばかりの食パンを切った。
「テリー」
カウンターの向こう側から声をかけられドキリとする。サンドイッチもうできます、と言いかけた彼を、ウェイトレスは身振りで制した。
そしてカウンターに身を乗り出し、ささやく容に
「2番テーブルさあ」
と切り出した。
2番テーブル。確認するまでもない、あの姉妹の席だ。
「聞いてたでしょ、おっきい声で寒い寒い言ってたの」
「聞こえてました」
さりげなく訂正するが、ウェイトレスの目は「わかってるんだから」と笑う。
「今さ、注文入ったんだけど、あの妹。なに頼んだと思う」
首を傾げる彼を楽しんだあと、ウェイトレスは注文票を彼に差し出した。
「ええっ…コーラフロートって…」
本当に驚いたのだが、しかしウェイトレスのために少し大げさにリアクションをとった。
「ほんと」
ウェイトレスも、大げさに溜息をついてみせる。
「あのお姉さんもさ、なんで付き合ってんだか」
ウェイトレスは2番テーブルを一瞥した。妹がなにやらわめき、姉が慌てて鞄から何かを取り出していた…
「いっつもあんな感じなんだから」

 いつもこの店はこんな感じなんだから…
飲み物は比較的すぐに出て来るが、食べ物はなかなか出てこない。カウンターの向こう側の男店員は、ウェイトレス姿の女店員となにやら談笑している。彼女は肩をすくめて冷めきった珈琲を飲んだ。
きっとハムサンドは、この珈琲を飲みきってしまった後に出てくるのだろう。
 いつもこうだ。
でも、この窓際の席は格別だ。窓の外に見える大通りをじっくりと眺められる。人が歩いているのを見るのが好きだ。いろんな人、いろんな格好、いろんな仕事、いろんな関係。
部屋に閉じこもっているばかりじゃ見れないものだ。休日にこの席に陣取るのは、彼女の数少ない趣味のひとつだった。
 今日は少し雨が降っている。そのせいで少し肌寒いが、おかげで大通りにはドラマがあふれている。傘という小道具が想像を掻き立てる。
 彼女はゆっくりと足を組むと、もう一口、珈琲を飲んだ。おかわりを頼もうか。少し晴れてきたし、もう少し鑑賞を楽しめそうだから。

最初の一杯

 確かに社長の言ったことは本当だった。
 僕は今、社長室にいた。もちろん前の会社の社長室ではなくて…いや、今も給料を貰っているから、前の会社というのはおかしい。今の会社…というのも変だ。僕は表向きクビになったのだから。
 つまり、僕は前の会社をクビになったことになっていて、他の会社にスパイをすることを条件に、無職ながら給料を貰っている。なんとも表現しづらいけれど、とにかくそんな状態で…首になってから一週間もしないうちに、とある会社から電話がきた。僕を雇いたい、と。
そして僕は今日、新しい会社の…いやそれも変な言い方だ…スパイ先の…うん、スパイ先の会社の社長室に招かれたのだ。
社長は僕が会社を辞めたとなったらすぐに声がかかるはず、と言っていた。きっとこの会社がスパイ先ということで良いのだろう。
 この社長室は、びっくりするほど前の会社…つまりスパイ元の会社と同じだった。部屋の一番奥には社長用の机が置かれてあり、その前に来客用のソファセット。壁を埋め尽くす本棚。部屋には窓がない。
社長室というのはどこもこんなレイアウトだと決まっているのだろうか。
突然、ドアが開いた。僕をここまで案内した女性が顔を覗かせる。まるで僕がここに座っているか確認するように。
「お待たせして」
すみません、とは言わずに言葉を切った。
「今社長が戻りましたから、すぐ来ます」
僕は頷くことしかできない。
「なに? もう来てるの?」
扉の向こうから女性…というよりも、少女のような声がする。
「やだ。待たせちゃってるの?」
どたどたという音と、少女の声が近づいてくる。案内の女性が振り返ったところをくぐり抜けて、声の主が部屋に入ってきた。
僕は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
僕よりも少し年下だろうか。若い女性…少女から女性になりたてといった感じだ。茶色い瞳はまだくりくりしているし、同じ色のまとめ髪からは癖毛がこぼれ落ちていた。
彼女は足早に部屋に入ると、僕に名刺を差し出した。
「あなたね。兄の会社で働いてたっていう事務員は」
混乱気味の僕は名刺を読む…彼女がスパイ元会社社長の妹だ。
「しかも5年も働いていたんですって?」
社長席の椅子に座った彼女は、ゆっくりと足を組んだ。
「5年も!」
大満足と言った感じで笑う彼女をよそに、案内の女性がお茶を持ってくる。
「ああ、彼女ね、私の秘書。」
僕と秘書は目を合わせ会釈する。
「でね、ぜひあなたをうちに雇いたいの」
どうも話が急なのはこの兄妹の性質らしい。
「だって5年よ。うちの業界はそんなに続く人いないのよ。兄さんの会社にだって5年も働いた人、ほかにいないんじゃないかしら」
案内の女性はお茶を置いても部屋から出ていかず、盆を持ったまま出口の近くに立った。
「でも僕は事務でしたし…」
僕は小さい声で切り出した。大変なことになった、と心のなかで繰り返していた。
「それに僕は…」
「ねっ」
女社長は身を乗り出す。
「立ってないで座りなさいよ」
そして座る僕に追い打ちをかける。「給料は前と同じでいい?」
僕は何から答えていいのかわからず狼狽える。
「社長」
秘書が盆を指先で弄びながら窘めた。
「そう、給料だけじゃないわ。ほかもね、前と全く同じにするから」
しかし女社長は止まらない。
「なんでもね。おんなじにするわ」
社長の合図で、秘書が僕に一枚の写真を差し出した。受け取って見つめる…これは、僕が前に働いていた部屋だ…いや、厳密には少し違う。それよりも少し、なんだろう、なにかが違う。
「合ってる?」
首を傾げる僕に、秘書が補足する。
「あなたが以前働いていた部屋と違いはないですか?」
なんだか、と言いかけて淀む僕に
「色々と伝手をたどって再現してみたのですが…」
秘書の言葉に、僕はようやく違和感の正体に気づく。
「ポットが古いです。ここにあるのは黒いポットですが、最近白いやつに買い替えて…」
ん?
「再現?」
「そうよ。全部兄さんと同じにしたいの」
ぜんぶよ。女社長は強調した。
「あなたの給料も、部屋も、仕事内容もね。どんなふうに仕事をしていたか、あとでそこのに詳しく教えてやってちょうだい」
そこの、と言われて秘書は斜めに頷いた。
「で、いつから入社できるのかしら? 今日からでも良いけど」

 案内された部屋は、以前働いていた部屋とほとんど同じだった。湯沸かしポットが、故障させる以前の古いモデルなだけだ。
「ポットはすぐに買い替えます」
そんな構いません、と言いかけた僕を、秘書は目で制した。
「全て同じにするようにというのが、社長命令ですから」
そうだ。僕の意志は関係ない。
 僕はぐるりと部屋を見渡した。妙な気分だ。全く同じだ。
「さて」
なんとも表現し難い感慨に浸っている僕に、秘書が切り出した。
「早速ですが、いくつか書類のサンプルを持ってこさせますので、以前どのように書類を扱っていたかお聞かせ願えますか。書類の形式も統一させますので」

背中の毛穴から、じわり、と汗が滲み出た。

 そうだ、僕は重大な秘密を抱えてここに立っている。重大なふたつの秘密を。
「上着を脱いでも良いですか」
声が震えないよう腹の底に力を入れながら、僕は聞いた。
「いつも仕事を始める前に…上着を脱いで、椅子の背もたれにかけていたんです」
秘書はええ、構いませんよと頷いた。
「以前と同じようになさってください」
「それから」
相手の言葉が終わる前に、僕は慌てて付け加えた。
「お茶を。飲ませてください。いつもそうしていたので」
手のひらに汗を感じた。
「どうぞ」
秘書はもう僕を見てすらいなかった。
「いつものようになさってください。書類を持ってこさせます」
形式的に会釈すると、そう言って部屋から出ていった。
 二の腕に鳥肌がたったのがわかった。
 とにかく、お茶を入れよう。
まずは一杯。そうして、とにかく落ち着こう。

魔王討伐隊

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
それは、私たちにとって、最低の結末でした。
「おはようございます!!」
 今日も扉の向こうで、無理に明るさを振り絞った声が聞こえてきます…私はうんざりした気持ちと、そして何か、うまく表現できない複雑な気持ちとともに、1日の始まりをひしひしと実感します。
 今日も私は、その挨拶に何も返しませんでした。毛布から顔を出しはしましたが、その様子を扉の向こうで知る術はありません。
「今日も、良い天気ですよ。北門の花園がとても綺麗な花を咲かせています、良いにおいがお部屋まで届いていませんか?」
ふふ、と私は笑いましたが、それは悲しさからでした。世界は、平和になってしまったのです。私たちの希望を叶えることなく。
 魔王を倒すため、東西南北それぞれの果てにある4つの塔の封印を解かねばならないと知ったあの日…”なぜそうしなければならないのか”まで、私たちは知ろうともしませんでした。そうしなければ魔王を傷つけることすらできないらしい…”なぜ”? 魔王を倒すという目的に、私たちは盲進しすぎました。
「あ、あの…」
扉の向こうの言葉が、ふと止まりました。旅から帰ってきて以来、部屋から一歩も出ない私に、毎日…それがたとえ、とりつくろった明るさであっても…欠かさず話し掛けてきてくれたあの声が、これほど沈んでしまったのは初めてのことでした。
 明日から、声をかけてくれないかもしれない…長すぎるほどの沈黙に、私の心はちくりと痛みました。
「みんなどうしているんでしょう」
ふとこぼした言葉に、きっと答えてくれる者はいないでしょう。私たちは…命をかけて旅をしていたのではなく、正確に言うなら…人生を捨てて旅をしていたのでした。そうして、世界各地に散らばり、人々の生活に諦めとともに溶け込み、絶大な力を持ち、けれども誰もかもに消滅を期待されている…そんなものに立ち向かっていたので した。
「勇者さまは…」
 私は毛布にくるまると、眠ろうと努力しました。もう、目覚めることなど無いように。

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
…クソが。
魔物のいない草原に、俺は唾を吐いた。
 あいつは、不治の病だったらしい。
嘘だろ? 何百年も生きてたあいつが、だぜ。
俺のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんの時代からいたっていうあいつが、実はもうあと数日も残されていない命を、自分の時間を止めることで維持していた、だ?
 俺たちは塔の封印を解いた。…魔王は死んだ。自滅した。
そんなわけあるかよ。みんなはそう信じてるけど、そんなわけないだろ?
 みんな騙されてる。あいつはそういう奴だ。俺たちをやりすごそうって魂胆だ。
そうだ…俺たちは強くなったからな。ダンジョンに入り浸ってレベルを上げ、クエストをこなして小銭を稼ぎ、地図に無い島で強い装備を手に入れて…
 ぜんぶ、あいつを倒すためだった。この手で倒すためだった。いまさら逃がすわけにはいかない。
なのに何だ、俺が魔王を探そうって言っても、ついてくるやつはいなかった。
 僧侶のやつ、生まれ故郷を燃やされた恨みはどうしたんだ?
 魔法使いのやつ、魔王を倒さなきゃ世界最強なんて名乗れねえぞ。
 なにより、勇者のやつ…
「あいつ、どうしてんのかな…」
これは、弱音じゃない。あいつがついてこなくたって、俺は正しい。
絶対、見つけてやる。この手で倒すまで、終わるもんか。

 魔王は死にました。世界は平和になりました。
「めでたしめでたし、ってわけね」
鼻で笑ってから、最近独り言が多くなったことに気づいた。独りだから、仕方ないんだけど…でもこれからは、もう少し、ミステリアスになったほうがいい。
 パーティのなかで唯一の女だった私は、それ故の苦労もたくさんあった。でも、魔王を倒すっていう目標の前には、そんなことなんでもなかった。…ううん、耐えてた。
一番嫌だったことは…何日もお風呂に入れなかったことでも、お洒落な格好ができなかったことでも、自分の体調に…それが女性特有のものでも…そんなの関係無く頑張らないといけなかったことでもない。装備を経血まみれにしても、無駄毛がそのままでも、3人はいつもと変わらず接してくれたし、私だってそんなものにかまっ ている余裕はなかった。一番嫌だったのは、パーティの誰と”デキているのか”を勘ぐる村人たちの視線だった。
 自分が泣いていることに気づいて、あわてて裾で涙をぬぐった。まったく、涙もろくなったものね。毎日、思い出しては泣いている。私はこんなにも弱かっただろうか。
 足元をじっくり見る。素材は最高のものを揃えた。私の涙なんて、そんな不純物を混ぜるわけにはいかない。私たちが立ち向かっていたものは、純粋に強大だったんだから。
 私たち4人がお互いに抱いている感情は、家族に対する愛情と良く似ていて、それよりももっと深いものだった。出会って数時間の人と死をともにする覚悟、同じ目標、命がけの旅…私は、もう女なんかじゃなかった。それでよかった。
 実質的に魔王を倒した私たちは、一応称えられはした。でも、村人たちの視線や態度は、心からそうしてくれているわけではないことを感じさせた。倒せるわけが無いという目をしていたくせに、今度はおまえたちが倒したわけじゃないじゃないか、という目になった。私たちは称えられるために旅をしていたわけではないけれど …でも。
 …時間だ。この時を逃すわけにはいかない。素材と同じく、時間も最高のものでなければ。
呪文を唱えながら、みんなのことを思い出していた。魔王になった私に、一番最初にたどり着くのはやっぱり格闘家だろうか。魔王を探すって言ってたもんねえ。でもわたしとしては、3人揃って来てほしいな。
「魔王は勇者に倒されないとね」
この独り言だけは声に出さず、唇の端だけに留めることができた。

記事の修正

「第二の人生」の誤字と

「バス停」のフォントがほかの記事と違っていたので修正しました。

第二の人生

人間は間違った選択をするものだ。
僕は友人の孝介を尊敬している。
孝介は模範的な児童であったし、生徒であったし、学生だったと思う。
成績はぶっちぎりというわけではなかったが、まあ優秀なほうであったし、何より教師の
覚えが良かった。地味ではあったが、目立たない学生では無かった。少なくとも僕は古く
からの友人として、彼の人生に信頼を置いていた。
「しかしね」
串を振りながら語る孝介の姿は、煙のせいか少し遠く見えた。

僕は孝介の幼馴染ではあったけれど、孝介ほど優秀でもなければ、模範的でもなかった。とはいえある意味で、将来を約束はされていた。それは職人の家系に生まれた宿命であっ
た。

僕は仕事終わりに孝介に呼びだされ、焼き鳥屋にいた。
僕は自分のことを堅物だとは思わないが、しかし繁華街で飲むというのは実に久しぶりの
ことだった。ネクタイをはずしチューハイを煽る孝介の姿は、彼には似つかわしくないよ
うに感じた。
いやしかし、会社員というのはこういうものなのかもしれない。
「しかしね、雄大」
ああ、彼は何か僕に語りかけている。しかし周りの喧騒のせいで明瞭に聞き取ることはで
きなかった。彼も、僕の目ではなく、使用済みの串を仕舞う壺をじっと見ていた。
「僕はね」
僕もなんとなく、彼の見ている壺に目をやってみた。
「僕はもういい加減に、自分のことを騙せなくなってきたのだよ」
この言葉だけはやけにはっきり聞こえた。
はっとして、孝介の顔を見た。
彼は僕の目を見ていた。

目の前に置かれたジョッキには、烏龍茶が揺れていた。とはいえ中身の殆どは氷だ。
孝介のチューハイにはほとんど氷は残っていなかった。ただ、ひしゃげたレモンが貼り付
いていた。

「本気なのかい」
彼がこれまでに何を言っていたのかわかりもしないのに、僕は確認した。
彼の言葉ではなく、眼差しに確認をした。
「こんなところで話すことじゃないと思っているのだろう」
大きな口で彼は笑った。
「いやしかしね、これでも考えに考えたのだよ」
でもやっぱり君は飲まないのだね。
彼の視線は僕を離さない。僕は目の前のぼんじりに手をのばす。
ようやく、でもゆっくり、そして断片的に、彼の言葉が戻ってきた。
そうしてつなぎあわせた彼の言葉は、僕の胸を掻き乱していた。
「親父さんもご健在のうちにと思ってね」
「僕は反対だ」
急に僕が大きな声を出したので、孝介は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、すまない。不吉なことを言ったね」
違う。僕が反対したのは、今話しかけたことにではなく、戻ってきた彼の言葉にだった。
僕はそれを伝えるために、ジョッキを握って俯いた。
孝介が、例の壺に串をそっと刺した。
聞こえるはずのない、串が壺に刺さる音が、した気がした。
孝介は何か言いかけたようだけれど、僕をじっと見ると言葉を飲み込み、ハツに手を伸ば
した。
僕は孝介ではなく、孝介に齧られるハツをじっと見ていた。
戻ってきた言葉を、ようやく組み立てることができた。

孝介はジョッキを空にして、大声で烏龍茶を注文した。
僕のジョッキはまだ氷ばかりだ。

「あのね、僕の父はもう弟子をとっていないんだ」
きっと蚊の鳴くような声だったが、孝介には届いたようだ。
「そう、しかしまあ、頼むだけ頼んでみても良いだろうか」
彼は酒に強いのだろうか、それとも普通はチューハイ一杯では酔わないものなのだろうか。
僕などは鳥を焼く煙だけで、現実離れしたような気分になるというのに。
「どうだろうね、とらなくなって随分だから」
この言葉は流石に届かなかったらしく、彼は右耳を僕に見せて"もう一度"と催促した。
「最近は旅行にばかり夢中でね、現役の頃はできなかったことだから」
僕は彼の目を、見た。じっと睨んでいた。
彼も僕の目を見返してきたが、すぐに僕の言葉の意味に気づいた。

店員が、烏龍茶のジョッキを孝介の前に置いた。
彼は氷でいっぱいのジョッキを持ち上げた。
「いやあ、すまない。これは。大失敗だね」
鼻を掻く彼を見て、僕は今日初めて、彼をちゃんと見た気がした。
「しかし僕の決意は本物なんだ」
僕が笑ったのは彼にとって意外だったのだろう。心外だという表情だった。
「日を改めさせてくれよ。ねえ」
ああ、僕は笑っている。僕は厨房に戻ろうとする店員を呼び止めている。
「ねえ孝介。やはり僕も一杯頂くよ」
なんだい、今更。烏龍茶なんか頼んでしまったよ。
拗ねる孝介に、しかし僕は、彼は烏龍茶のジョッキの氷も溶かすべきだと思うのだった。