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事件の報告

 夕日が窓から差し込んでいた。
こんなことしている暇なんかないのに。明らかに不服を顔に浮かべる部下を、警部は肘でつついた。
「そう」
警部を名指しで呼び出したくせに、この女の反応はなんだ。部下は不服顔を取り繕わなかった。半年前から連続して起きているこの殺人事件は、間違いなく今一番の話題だ。ちょっと金持ちだからって、捜査中の警部を呼び出して状況を報告させるなんて、明らかに常軌を逸した要求だった。
警部だってこんな女の言うことなんか聞かなきゃいいのに。
 窓から差し込んだ夕日は、部屋の沈黙と混ざり合って灰色になった。
「なかなか進展のある報告ができず、申し訳ございません」
重苦しい空気に耐えられなくなったのか、警部が頭を下げた。
「いえ、無理を言って色々と教えて頂いているのはこちらですから」
女主人は警部ではなく、その隣の部下の目を見ながら言った。
「捜査中お忙しいところ、本当にありがとう」
「もったいないお言葉で」
答えたのはもちろん警部だ。
 ここは女主人の屋敷だった。おそらくここは、あまり丁寧に対応しないでよい来客用の部屋なのだろう。女主人が座る椅子と小さな机、来客用のソファだけが置かれていた。警部と部下は、ソファには座らず立ったままだ。
「先週の事件でも、閣下にはお世話になりまして」
閣下はやめてちょうだい、などと女主人は言わなかった。
「閣下のご協力なしには捜査もままならない状況ですから」
「一連の事件全てが私の土地で起きていますものね」
女主人はふ、と笑った。
「私のことも疑っていらっしゃるでしょう」
「いえいえ、そんな」
わざとらしい相槌は部下のものだ。警部は小さな声で部下を叱りつける。
「申し訳ございません。本気になさらないでください」
「かまわないわ。当然のことよ」
部下にはその答えが虚勢に見える。その視線に警部が気づいたのか
「やめたまえ、そんな目をするのは…。閣下には不可能な犯行だろう」
そう言うと、女主人に微笑む。
「実は先週の現場では」
言いかけてはっと口を閉じる。
「女性に聞かせる話ではありませんな」
女主人はもう一度ふ、と笑う。今更でしょう、聞かせてちょうだい。
警部はしばらく戸惑っていたが、ふてくされる部下の顔を見ているうちに決心がついたらしい。
「そうですな…散々凄惨な現場についてご報告しているのですから」
そうつぶやくと、女主人の瞳をまっすぐに見て言った。
「実は先週の現場では、被害者の眼孔に性的暴行の痕があったのです」
どうも生々しい表現を避けたかったようだが、その試みは成功とは言い難い。
「眼孔」
女主人は一瞬考えて、自分のまぶたをおさえた。警部は頷く。
「犯人は男性の可能性が高いってこと?」
「男性器を持っていなければできない所業ですな」
警部は何故か胸を張った。
 女主人はくるりと窓の方を向いた。しばらく何か考えていたようだが、警部たちに背を向けたまま「そう」と言っただけだった。
 ノックの音がした。メイドが顔を覗かせ、紅茶をお持ちしましたと声をかけた。
いえ、もう用は済みましたから。
警部は女主人の背中に一礼すると、部下に帰るぞと声をかけた。
せっかく紅茶が入りましたのに、と引き止めるメイドを断り、せっかく紅茶入れてもらったんですから、と留まろうとする部下を制しながら、警部はそそくさと屋敷を出てしまった。
呆然と立つメイドに、女主人は声をかけた。
「紅茶、持ってきてちょうだい。あなた一緒に飲まない?」
彼女の瞳は夕日のせいで赤く見えた。

最後の一杯

 クビになった。
 いや、厳密にはクビにはなってない。
 とはいえ、クビになったとしか表現しようがない。
 僕は自分のデスクの前で立ち尽くしていた。もうどうしようもない。
 どうしろっていうんだ。

 ほんの一時間前、僕はいつもどおりに出社した。入社五年目。オフィスのドアを開けてからの動作は流れるように無駄がない。上着を脱ぎ、腕まくりしながらタイムカードを押し、上着を椅子の背もたれにかけながら着席する。湯沸かしポットの電源を入れたら、湯が湧くまでの間に今日一日でやるべきことを書き出す。お湯が湧いたらマグカップに注ぎ、引き出しからティーバッグを選ぶ…今日は緑茶にしよう。マグカップに放り込んだティーバッグが自分の役目を果たすまでの間に、やるべきことのリストに優先度をつけていた。
 事務所には誰もいない。僕はたった独りの事務員なのだ。とはいえサボったりはできない。サボっていては終わらない量の仕事があるのだ。
「今ちょっといい?」
女性の声がして、僕は振り返った。女性は事務所の中にずかずかと入り込んで僕の机を覗き込んでいた。僕がたった独りでもうかうかサボれない理由のもうひとつはこれで、この会社の人はノックもなしに事務所に入ってくるのだ。そして自分の好奇心のままに僕の机を遠慮なく覗き込む。
「大丈夫です。どうかしましたか」
とはいえ、事務所に人が来るのは稀だ。大抵僕は出社から退社まで誰にも会わない。月に何度か別部署の方が書類を届けにきたり引き取りにきたりすることがあるくらいだ。
この女性は…確か社長の秘書…だったと思う…のだが、たしか、入社時の面談で会ったきりだ。
「ちょっと社長からお話があってね。今大丈夫なら、社長室まで来てくれるかしら」
「はあ、社長」
僕はマグカップから取り出したティーバッグをティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。
「…社長?」
素っ頓狂な声が出る。
「えっ、はあ。なんの、いや、すぐに参ります」
「ええ、お願い。そのままでいいから」
慌てて腕まくりを戻す僕に、秘書の女性は微笑んだ。
「手ぶらで大丈夫よ。社長室、わかる?」

 社長室のドアを開けるなり、社長は僕の肩を抱いて大歓迎してくれた。社長と会うのも入社時以来なのに、パーソナルスペースの詰め方に僕は驚くことしかできない。
「いやいや、仕事中すまないね」
社長は僕を来客用と思われるソファに座らせた。ソファは二人用で、目の前に小さな机と、向かいには一人用のソファが置いてあった。その向こうには社長のデスクが書類で山積みになっていた。僕のデスクの2倍は大きい。部屋には窓がなく、向かいの壁も、左右の壁も本棚で埋め尽くされていた。社長室というよりは書斎のようだと僕は思った。
「いえ、あの、失礼します」
ソファに座ってから失礼しますもないものだが、そう言うしかない。
「実はちょっとお願いがあってね」
なんと社長は僕の隣に座り、肩と肩が触れるような距離で話しかけてくる。僕はパニックに陥り
「いや、あの、恐れ入りますが、その、大丈夫ですから」
なんと言ったらいいのかわからず、向かいにある一人用ソファに座って貰えないかと身振りで示す。
「うん、でも小さい声で喋りたいから、ここでね」
社長は更に僕に近づき、声のトーンを落とした。
 この距離になってしまうと、嫌でも社長の顔が視界に入ってくる。僕は人の顔を見るのが苦手だ。必死に目をそらそうとするが、社長はニコニコと僕の視界を追ってくる。
「あのね…」
僕の視線を捕らえたところで、社長は切り出した。
「きみ、うちに入ってもう五年になるんだってね…」
僕は「はい」と答えようとしたが声にならず、慌てて頷いた。
入社時から変わらず、社長は若々しい。いや、おそらく本当に若いのだろう。髪を金に染めた若者で、茶色い瞳はよく見ると緑がかって見える。照明の関係だろうか。
「実はね、うちの事務員でそんなに続いた人はいなくってね。だからそれってすごいことだよ」
肌は白い。青白いくらいだ。後ろに撫で付けた金髪とよく合っている。スーツはいかにも高級そうだが、残念ながら僕に知識がないので、本当に高級なものなのかはよくわからない。
「だからね、今日で君をクビにする」
眉と髪の生え際は地毛の色のままのだろう、黄味がかった茶色だった。ん? クビ?
「クビ。クビですか」
口に出してみて、ようやく意味を理解しかける。
「えっ、クビ? クビですって?」
パニックになりかけた僕の肩を、社長はがっしりと捕まえた。
「聞いて聞いて。最後まで聞いて」
指が肩に食い込む。
「は、はい。聞きます」
僕は反射で返事をする。
「とりあえずね、君をね、クビにします」
「クビ?」
「聞いて聞いて。それでね、君は無職になります」
おそらく今ボクはポカンとした顔をしている。
「クビ…つまりクビになるんですか、僕」
「なる」
パニックが押し寄せてくる。
「えっ、な、なぜ、いや、ごめんなさい。すみません。勘弁してください」
狼狽える僕の肩を捕まえたままの社長の手に、もう一度力が入る。
「大丈夫大丈夫。大丈夫だから聞いて聞いて」
「いや、大丈夫じゃないです。クビになるんだから大丈夫じゃないです」
「いや大丈夫だから。給料は払うから」
はっ?
僕の時が止まる。
「給料は変わらず払うから。毎月」
社長の視線が僕の瞳をもう一度捉える。
「まあその、申告できないお金にはなっちゃうけど。君は表向き無職ってことになるわけだから」
「おもてむき?」
僕の鸚鵡返しに、社長はニッコリ微笑む。
「うん。だからね、安心して。落ち着いて最後まで聞いて」
落ち着きはしたけれど、僕の頭の中は混乱したままだ。
「ええと…」
つまり僕はちっとも落ち着いていない。
社長は僕の肩を掴んでいた手のちからを緩める。
「たぶんクビにしてから一週間もしないうちに、転職のお誘いが来る。そこに転職してほしい」
僕にはもう相槌を返す気力がない。
「転職したら、新しい会社から給料が出るだろうけど、こっちからも変わらず給料を出すから。つまり収入は約二倍になるわけで、君にとっても悪い話じゃないはずだ」
ただ頷く。同意しているわけでも肯定しているわけでもなく、ただ頷く。
「それで…その会社で扱っている書類や、知り得た情報を、教えてほしいんだ」
しばらくの沈黙のあと、僕の中でようやく話がつながりはじめる。
「つまり、つまりそれって…」
「そう」
社長は僕の耳元に唇を寄せて囁いた。
「スパイだ」

 こうして僕はクビになった。
 いや、だから、厳密にはクビではないけれど、表向きクビになった。
事務所に戻ったときには、緑茶は冷めきっていた。僕はそれを一気に飲み干した。
僕は今後の方針について社長室で話し合った際、意見が割れて社長に暴言、そしてクビになったことになるらしい。私物をまとめなければ。マグカップのほかに何があったっけ?
 いや、そんなことよりも問題はほかにある。いや、しかし…問題がありすぎる。
しかし今抱えている問題は、リストにして優先度をつけることすら許されない。頭を整理するには時間が必要だ。
 僕は湯沸かしポットのスイッチを入れた。
もう一杯だけ。それくらい、許されるだろう。

姉妹の帰郷

 妹さんのほうは、それは美しい方でした。ご存知でしょう。
女、という言葉を、あの方以上に意識させる方はこの村にはいませんよ。ご自分でもそれをよくわかっておられる方でした。誰もが一度はあの方に…正直なところ、僕だってそうです。でも、怖いところもありました。うまく言えないのですが、自分に興味を示さない人を人間扱いしないようなところがあったのです。
 お姉さんのことはご存じですか。いえ、有名でしたから、きっとご存じでしょうね。そりゃあ、妹さんに比べれば、お顔立ちはあまり美しい方ではなかったかもしれません。けれどそんなことは問題にないくらい、聡明な方でした。小さなころから、頭の良い子でした。村を出て大学に行って、学者になったらしいと聞いたときなんか、ああやっぱりそうなったかと思いました。妹さんとは違う、不思議な魅力のある方でしたね。
 去年の暮れでしたでしょうか。村のはずれにある森が閉鎖されて、学者さんが来るって話は随分前からあったんですが…その学者さんてのがお姉さんのほうだって話でね。村じゃ大騒ぎでしたよ。ええ、そりゃあまあ、いろいろとすごい論文なんかを発表されていて、有名になってらっしゃったという噂だったもんですから。森の近くに引っ越されたときにやじ馬がでたくらいですよ。まあ、ああいう方なので、すぐに村の皆も静かになりましたけれどね。
 その後すぐですよ、今度は妹さんのほうが、村に帰ってくることが話題になったのは。いや、妹さんの話題のせいで、お姉さんへの話題が無くなったのかもしれません。とにかく、なんせ村を出ていくときには玉の輿だって話題になったくらいの人が、今度はお産で帰ってくるっていうんですから、皆興味津々でしたね。
 でも、妹さんのほうは、何もかも昔と変わってしまっていました。どの店も妹さんのために扉を開いて待っていたのに、妹さんは家に篭ったままでした。村のはずれの家でしたが、僕の家にまで、毎日のように妹さんの声が聞こえてきましたよ、お姉さんを罵っているのです…でも、お姉さんはいつもの時間に平気な顔して森へ出かけていくのです。
 最後にお姉さんに会ったのはきっと僕だと思います。研究は順調ですか、というようなことを聞きましたよ。彼女は、ただ小さくおかげさまでと答えただけでした。
 そのとき彼女は、妹さんはもう長く生きないだろうと言っていました。まるで、他人事のようでした。僕がなんて言ったのかもう覚えていませんが…妹さんはこれから母親になるのだから…とかなんとか…自分の言ったことはもう忘れましたが、そのときのお姉さんのキョトンとした顔は忘れていませんよ。
「妊娠? うちのが?」
そうして、ほんとうにぞっとするような声でお笑いになったのです。
 けれど、先に死んだのはお姉さんの方でした。自殺でした。
こんな村です。色々と噂になってもよさそうなものですが、…誰も彼女のことを話題にはしませんでした。
 でも、そうですか。妹さんもやはり自殺されたんですか。そうですか。
お姉さんの言う通りになったのだと思います。どうか、妹さんのことは盛大に弔って、折々で話題にしてあげてください。彼女はそういう方ですから、きっとあのとき妹さんの…いや、やめましょう。正直なところ、僕は、いや、きっと村じゅうの人間が、あの姉妹に振り回されるのはもううんざりだと感じているんですから。

バス停

 田んぼの真中を突っ切るように引かれた道路に、黄色いベンチが置かれていた。
正確には、黄色いベンチというには古びすぎているけれど、しかし黄色だったベンチと表現するほど面影を失いすぎてもいなかった。
ベンチには老婆が腰掛けていた。老婆と表現するほど年寄りでもないが、しかしもう若くはない。
老婆の傍らには買い物袋が放り出されていた。ごつごつと膨れた袋は、許容量を超えていることを必死に訴えていたが、これはレジ係が袋の裁量を見誤ったわけではない。その証拠に、この袋のなかには折りたたまれた新品のレジ袋が押し込まれている。
 ずっと遠くから聞こえていたエンジン音が、ようやく近づいてきていた。老婆がゆっくりと左側を見やると、バスが到着するところだった。
バスはゆっくりとスピードを落とし、老婆の前に昇降口をぴったりと合わせて止まった。
コンプレッサーの音とともに、バスの扉が開いた。
「乗らない! 乗らないよ!」
老婆は買い物袋を取られまいと抱え込みながら叫んだ。
バスはそれでも念のためといったふうにしばらく止まっていたが、老婆が「さっさと行け」と身振りで抵抗するのを確認すると、扉を閉じ、ゆっくりとまた出発していった。
 遠ざかるエンジン音を見送りながら、老婆は買い物袋をまた放り出した。
 ふと、誰かの声が聞こえた気がした。いや、それは確かに誰かの叫び声だった。老婆が訝しげに左側を見やると、スーツ姿の青年が鞄を振り回しながら駆けてきた。
青年は全速力で走っていたようだが、ベンチの前で力尽きた。スーツに土がつくのも構わず、膝を地面についた。
「乗ります…」
もはや届かない思いを喉の奥から絞り出したのを最後に、ゼイゼイと肩で息をする。
道路の先を見ようとして老婆に気づいた青年は、何か言いかけて口を開くが、やはり胸からは呼吸しか出てこない。
 青年は息を整えることにしたらしく、地面に視線を戻し手のひらで体を支えた。老婆は買い物袋を少しだけ自分の体に引き寄せた。
 いつまでもそうしているわけにはいかなかった。青年は呼吸が落ち着いてきたのか、突然立ち上がり、息を吸って、息を吐くと、老婆の、買い物袋の、隣に腰掛けた。
 大きく息を吐く。
 反射的に、大きく息を吸う。
青年は顔を上げて…そしてきょろきょろと辺りを見回した。数秒考えてから、老婆に声をかけた。
「次、いつバス来ますかね」
「バス停じゃないよ」
老婆は青年のほうを見もしなかった。

何でもない話


レストランの駐車場に一台の車が止まる。
その中から一組のカップルが出てきた。
「オススメの店なんです。」
楽しそうに言う男。
「昔、よく食べに来ていました。おいしいんですよ、安いし。」
「ふつうのファミレスじゃない。チェーン店なんだから、どこも一緒でしょ?」
女が、からかうように言う。
「そうでもないんですよ。」
子供のようにはしゃぎながら店に入る。
女も後に続く。

注文を取り終えた店員が、二人の元から離れた。
「今回は私がおごるって言ったでしょ。」
女がおしぼりの袋を開けながら言う。
スペシャルステーキとステーキセット、どっちにするか迷ってたんでしょう。スペシャ
ルステーキにすれば良かったのに。」
「そんな、そっちの方が高いじゃないですか。」
「だから、今回は私がおごるって言ったじゃない。貴方はお金の事、気にしなくてもいい
の。」
「でも、おごられるんだったら、気にしますよ。」
「あのね、もう少しで私たち、結婚するんだからね。遠慮もなにも要らないでしょう。」
「‥でも‥‥やっぱり気にしてしまいますよ。」
女が、ふうと息をついた。
「前から言ってるけど、私語でいいんだよ。」
「‥でも僕、私語で話すと方言が出ちゃいますから。」
「あのね、私は別に田舎生まれを軽蔑したりしないわよ。」
「そうじゃないですよ、方言が嫌なわけじゃないですよ。ただ、僕は田舎の中の田舎って
ところで生まれたから、方言が凄いんです。きっと、僕が方言で話したら、会話になりま
せんよ。」
女が、もう一度息を付いた。「結婚したら、貴方の土地の言葉も教えてね。」
「もちろんです。」
ステーキセットが運ばれてきた。

 

 

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corrado@comにて「濱田マサミ」名義で公開していたものを再公開

庭の盥

 太陽と草の匂いが、中庭じゅうに蔓延していた。
使い込まれすぎて黄金に輝きはじめていたアルミのたらいは、あづさの足の動きに合わせて中の湯をちゃぷちゃぷ言わせた。午後に入ってすぐの空はどこまでも青く、重そうな雲は真っ白だった。
「お湯加減はいかがです」
すりきれてぺちゃんこになったタオルを抱えながら、ともよがそおっと縁側に出てきた。彼女の真っ黒な髪は、あづさの日に焼けて赤っぽくなったそれとは違い、日の光を吸い込んでいた。
「いいかげん、ぬるくなってきたけど」
水面に揺れる太陽を蹴飛ばしながら、あづさは振り返らずに答えた。ぴちゃり、とまた音がした。
 あづさの白い足は魚のようにたらいの中に遊んでいた。
 塀の向うから、きゃっきゃと笑い声がしていた。時折、塀と植木の向うに、黄色い帽子が姿を見せては消えていた。
「でも、いい気持ち」
 答えを聞く前に、ともよは靴下を脱いでいた。畳の上に置かれた薄桃色の靴下が、笑い声が遠のく塀の向うへ行きたがっているように見えた。
「入ってもいいでしょう」
肩と肩をぶつけながら、それでもしなやかに自分の隣に座ったともよが下着姿同然であったことに、あづさは驚いたようだった。返事を待たず、ともよはたらいに足をいれた。

 ちゃぷん。鈍い音がした。
あづさはそおっとともよの髪に指を絡めた。
ともよが水面を見たまま微笑んだ。

 どこからか、甘い匂いがやってきた。中庭の草の匂いとまじると、それは夏の匂いになった。
雨が降るのかもしれないと、ともよは思った。あづさは気づいているのだろうか。
ちらりと左に目をやると、自分の髪をいじるあづさと目があった。なあに、とあづさは微笑んだ。
 雨の匂いがするの
言いかけて、飲み込んだ。あづさは雨を怖がるのだった。

 いたずらっぽい、笑い声がした。塀の向うからだった。あづさは視線だけそちらにやった。ともよはあづさを見つめたままでいた。雨がやってきたのかもしれないと思ったからだ。
 ふと、あづさは蝉の鳴き声に気づいた。
 ふと、ともよは踵がたらいの縁に当たるのを感じた。
 
たらいの湯は、すっかり冷めきっていた。ただ太陽が温めるから、それは水ではなかった。
ちゃぷり、ちゃぷんと音がした。 

旅人の靴

 たったひとつこの世に魔法があるとしたら、彼の靴こそがそうだ。世界の果てと果てを何往復したって、ちっとも擦り減りはしないし、まして穴なんて絶対にできないだろう。
 彼は、旅人なんだ。
 砂漠の真ん中にぽつんとあるその建物に、彼は興味を惹かれて近づいていった。旅人なんて、好奇心が強い人がなるものなのだ。その大きな灰色の建物は、大きさの分だけ旅人の好奇心を刺激したのだ。ううん、まあ、確かに大きいのは大きいんだけど、あんまり砂漠が広すぎて、すごく唐突な感じがするな、なんて旅人は思ったのにちがいないのだ。
 これはまあ、詳しく説明なんてしなくていいと思うけど、建物には入り口があるに決まってる。旅人は注意深く建物を観察していたから、もちろんそれを見つけるわけだ。そうすると、旅人はなんだかわくわくしてきて、入りたいなって思う。思って入り口に近づく。想像してみてほしいんだけど、守衛がいるんだね、その扉には。いかめしい格好で立ってるわけさ。
 ちゃんと想像した?
 旅人は帽子をかぶってたほうがいいな。かぶってたんだ、うん。それでさ、守衛にこれこれこういうわけだから、中を見学させてくれって言うんだ。旅人なんだから、こういう交渉は手慣れたものさ。守衛は上の者に聞いてみないととかなんとか言う。それで扉のところにある電話で中のえらい人と連絡をとるのさ。チンッて受話器の音がする。旅人はわくわくして、どきどきしてる。旅人は中に入れるかな? 入れないとまあ、話が終わっちゃうから、入れるわけだ。そうだね、署長なんかが迎えに来るといい。
ようこそ。砂漠の刑場へ。
いや、大丈夫、このお話は怖くないよ。ただ舞台が刑場ってだけさ。旅人はやさしい良い人だし、署長はおっちょこちょいだけど、怖いことなんてちっともおこらないよ。
 ここが刑場だってことに旅人はちょっとびっくりした。でも、まあちょっとだけ。旅人ともなると、そんなに大げさに驚かなくなるものなんだ。建物はロの字型だった。四角い中庭があるんだ、でも外からはちっとも見えなかった。建物はひっそり静かで、薄暗いんだ。
「ここは国王陛下のおつくりになった施設のなかで、最も技術のすすんだ場所なんです」
 署長は興奮して言うのさ。旅人はきょろきょろしていろんなものを見るんだけど、署長は一番見てほしいものの話をするんだ。
「特にこの刑場にしかない、万能刑機の性能はすばらしいものですよ!」
 でもまあ、旅人はふうんって思ってる。ふうん…それより、罪人はどこにいるのかな。罪人に故郷はあるのかな。そこへも行ってみたいなって。
 署長は興奮しすぎて、旅人の腕をつかむと中庭の真ん中まで引っ張っていく。旅人はちょっと、そうさちょっとだけね、びっくりする。中庭の白い固い砂がズリズリ言う。
「これです!」
 署長が自信満々に紹介した機械は、すっごく大きくて、それで、すごく複雑なんだ、すごくね。木と金属でできてる。複雑すぎて蜘蛛みたいなんだ。見ただけじゃ、どうやって使うのかさっぱりわからないのさ。旅人は大きな機械を見上げるものだから、太陽が白く輝いているのも見えたんだ。
「この万能刑機は死刑も確実にやってくれますが、鞭打ちもやりますし……」
署長は腰にぶら下げていた水筒から水を飲みながら言うんだ。誇らしげに。
「すりの腕も折りますし、鼻をもぐのも、焼き印もこいつでやれるんです」
 へえ、気持ち悪い機械だなって旅人は思ったんだ。署長はつばを飛ばしながら勝手に続ける。
「一番自慢の機能は、罪人の血の処理までやるところでしてね。歯車の細かいところまで自動で掃除しますから、絶対に壊れないんです」
 へえ、そりゃすごい。旅人は、しみじみと思った。ズリズリという音がした。罪人がつれてこられたんだ。
「ああ、ちょうど良い」
署長はゲラゲラ笑って旅人の肩を馴れ馴れしく抱くんだ。罪人はしょんぼりつれてこられる。手も足も鎖でつながれて、ボロをきている。ひげづらの若いやつさ。
 監視員から書状を渡された署長は、苦い顔をした。ちょっとした盗みで、腕を折るだけの刑だった。これじゃ血がでないな。掃除が見せられないぞ。署長はううん、と考えた。
「そいつは何をやったのです」
 旅人が書状を覗きこもうとしてしてくるのを、署長は不自然に体を捻って逃げるわけだ。もうわかるだろ? ぬすっとなんだ、折ったって切ったって一緒さ。署長はいかめしい顔をしておほん、と咳払いする。
「盗みですな。腕を切断します」
「切断ですか!」
 旅人は、この国の法律は厳しいなってびっくりする。罪人が聞こえないところにいる、ね。
署長は監視員に合図する。監視員は罪人を、あの蜘蛛みたいな機械に押し込む。署長がさりげなく、ふらっと機械のそばに歩いていって、まあなんとかうまい感じにパチンとスイッチみたいなのを切り替える。
 大丈夫、こわくないってば。怖い話なんかじゃないんだ。まあちょっと、血は出た。ああうん、腕を切り落としたんだからきっといっぱい出た。機械から噴き出して、赤黒い血が白い土の上にぼたぼたと落ちた。署長がしまったって顔をする。大丈夫、血の話はすぐ終わる。罪人が叫ぶ。ふざけるな、なにするんだ、痛い、あと助けてとか、意味もない叫びを。旅人は、往生際の悪い奴ですななんて呑気に言ってる。慌てた監視員が機械を無理に開こうとする。署長が何か叫ぶ。ちらり、と銀色の光が機械の中で煌くのが見える。監視員の右耳から左胸がぱっくりと割れる。怖くないよ、血がまた出たけど、機械が止まってないのに手を出した監視員が悪いのさ。旅人がびっくりして首をかしげる。なんだかおかしいぞ。署長はやったら咳払いをする。金きり音のような、叫び声のような異音の後、あたりがしんとする。
 旅人は、ぽかんと蜘蛛をみつめていた。土に染み出した血だまりも、機械から流れる血もそのままだ。機械は罪人を飲みこんで閉じたままだし、監視員もぴくりともせず地面に崩れている。
「どうしたんです」
 旅人はまばたきもせずに言った。ううん、旅人はちょっとしか驚いていないよ。
「死にましたな」
 中庭はそれきりしんとなったんだ。

 本当のことを言うよ。たったひとつこの世に魔法があるとしたら、それはぼくたちの想像力だ。このお話にでてきた旅人は何色の服を着ていた? 署長は煙草臭かったかい?  あの蜘蛛はぼくたちさ、ほんのつまらない罪を犯した男と、まじめな監視員の血を想像したろ? じゃあ、殺したのはぼくたちさ、ううん、正確にはぼくじゃない。ぼくなんていない。
 ぼくを想像したかい?